朝鮮王朝には518年間に42人の王妃がいたのだが、その人物像を見ていくと、平凡な人、悪女、聖女、策略家といった具合に分類することができる。
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そうした王妃の生き方をずっと見ていて、心情的にとても応援したくなる王妃を挙げれば、端敬(タンギョン)王后、仁穆(インモク)王后、孝懿(ヒョウィ)王后という3人である。応援したくなる根拠とは何なのか。
●端敬王后〔1487~1557年〕
燕山君(ヨンサングン)がクーデターで追放されて異母弟の中宗(チュンジョン)が即位するとき、端敬王后は夫を精神的に支えた。それなのに、叔母が燕山君の正室で父が燕山君の側近であったことが不運だった。
クーデターを成功させた高官たちによって、無理やり廃妃にされてしまった。それは1506年のことで、端敬王后が亡くなったのは1557年である。なんと51年間も元王妃として過ごしたのだ。その間はどれほど辛い人生であっただろうか。
●仁穆王后〔1584~1632年〕
朝鮮王朝の王妃の中で一番悲劇的な人かもしれない。それだけに心から応援したくなってしまう。14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室であり、1606年に永昌(ヨンチャン)大君を出産した。2年後に光海君(クァンヘグン)が即位してから、仁穆王后の運命も変わった。永昌大君は殺され、自身も幽閉されてしまった。
1623年、仁祖(インジョ)がクーデターを成功させて光海君が追放されると、光海君の斬首を強硬に主張した。恨みを晴らしたいという気持ちはよくわかる。しかし、仁祖は願いを聞き入れてくれなかった。
●孝懿王后〔1753~1821年〕
正祖(チョンジョ)を取り巻く女性としては成徳任(ソン・ドギム) が特に有名である。『イ・サン』ではハン・ジミンが演じていたし、『赤い袖先』ではイ・セヨンが扮していた。この女性は正祖がとても愛した女性としてドラマでもよく取り上げられている。一方、正祖の正妻である孝懿王后はとても地味な性格であったために表だって取り上げられることは少なかった。
とはいえ、大変な人格者であった。結局、正祖との間で子供を宿すことはできず、1821年に68歳で亡くなった。確かに地味な存在であったが、「王妃の中で徳があった王妃」として名を残している。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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