『イ・サン』の序盤を見た人は、「なぜ国王の英祖(ヨンジョ)は後継ぎの思悼世子(サドセジャ)の命を奪ったのか。なぜ非情にも息子を米びつに閉じ込めて水も食べ物を与えなかったのか」と疑問に思うかもしれない。
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しかし、英祖は素行の悪さを理由に完全に思悼世子を見限っていた。その不信感は1762年、思悼世子に謀反の疑いがあるという告発がなされたときにピークに達してしまった。
思悼世子を呼び出した英祖は厳しく叱責している。
「お前は本当に、側室を殺したり、宮中を抜け出して遊び歩いたりしているのか。世子なのに、どうしてそんなことができるのか」
「側近の者たちが余に何も知らせなかったが、もし告白者がいなかったら、余がどうやってそれを知ることができたのか。側室は余も気に入っていたのに、どうして殺したりしたのか。こんなことをしていて、国が滅びないとでも言えるのか」
このように思悼世子を非難した英祖は、ついに1762年閏5月13日になって、思悼世子を廃する決定を下した。
「許してください。もう二度と意にそぐわないことはいたしません」
思悼世子はこのように懇願したが、英祖は冷たく言い放った。
「自決せよ。今ここで自決するのだ。たったいま世子を廃したのだが、史官はちゃんと聞いていたのか」
史官は正式な記録を残す官僚である。英祖は、自分の発言を正式な文書に記録することを要求した。
たまらず思悼世子は、泣きながら地面に額をこすりつけて言った。
「過ちを改めて今後は正しく生きますので、どうか許してください」
しかし、英祖は聞く耳を持たなかった。
「映嬪(ヨンビン)が余になんと言ったと思う? そなたがいかに世子にふさわしくないかを泣きながら訴えてきたのだ。もはやこれまでだ。そなたが自決しないかぎり、この国は安泰とならない」
ここで英祖が言った「映嬪」とは、思悼世子を産んだ映嬪・李(イ)氏のことだ。思悼世子は生母からも見放されていた。
こうして、思悼世子は英祖によって米びつに閉じ込められて餓死してしまったのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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