ドラマ『イ・サン』の序盤では、思悼世子(サドセジャ)が英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められる事件が大きく描かれていた。それは、1762年の出来事だった。
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結局、米びつを8日目に開けてみたら思悼世子はすでに亡くなっていた。その時点になってようやく英祖は自ら思悼世子を死なせたことを後悔し、息子のことを心から哀悼している。
英祖は性格が偏屈なところがあった。もし思悼世子を米びつに閉じ込めた直後でも、気持ちを変えることができれば、思悼世子は命を落とすことはなかった。そう考えれば、英祖の頑固な態度が思悼世子を死にいたらしめたと言えるのかもしれない。
ただ、英祖が思悼世子を許さなかったのは、世孫(セソン)であるサンを後継者にしたいという気持ちが強かったからだ。思悼世子は学問に秀でた人物ではあったが、素行が悪く、国王にふさわしくないところが多かった。その点、サンは頭脳明晰であり、品行方正であった。
それゆえ、朝鮮王朝の行く末を考えた時に、思悼世子よりサンを後継者にしたいという意思が英祖には明確にあったと思われる。だからこそ、英祖は思悼世子を許さず米びつに閉じ込めたままだったのである。
思悼世子が亡くなった後、国王の後継者になれる王族男子は間違いなくサンであった。ただし、思悼世子は罪人として米びつに閉じ込められて死んだので、サンをそのままでは後継者にすることはできない。なぜなら、罪人の息子を国王にするわけにはいかないからだ。そこで英祖はサンを孝章世子(ヒョジャンセジャ)の養子にした。
この孝章世子というのは英祖の長男であり、思悼世子の兄である。9歳で亡くなってしまっていたが、形の上で英祖はサンを孝章世子の息子にした。こうすることで、サンは王位継承の資格を守ることができたのである。
サンとしては敬愛する思悼世子の息子から外されてしまったことが残念であっただろうが、王になるためには仕方がないことであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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