朝鮮王朝において国王の母親は大妃と言われる。年長者を敬う儒教社会なので、大妃は国王以上の権力を持つことも多かった。その大妃よりさらに上に位置するのが大王大妃である。これは国王の祖母を意味しており、王族の最長老となるので最上位の権力者だった。その大王大妃として、我がもの顔に政治を動かした3人の恐るべき女性を取り上げてみよう。
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◆貞熹(チョンヒ)王后〔1418~1483年〕
7代王・世祖(セジョ)の妻。彼女は世祖が亡くなった後に絶大な権力を握ったが、特に9代王・成宗(ソンジョン)の時は大王大妃として強権を発した。成宗の母親は仁粋(インス)大妃として有名だが、さらに上の存在が貞熹王后であり、彼女が言うことは誰も逆らうことができなかった。朝鮮王朝で42人いた王妃の中で、おそらく最高の栄誉を担った女性である。
◆貞純(チョンスン)王后〔1745~1805年〕
21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室である。英祖の息子の思悼(サド)世子が餓死する事件が起きたときに、貞純王后は仲が悪かった思悼世子を陥れる工作をしている。そもそも、彼女が英祖と結婚した時はまだ14歳であった。英祖は65歳。なんと年齢差が51歳もあった。
しかし、彼女はイ・サンが即位した時には形の上で祖母に当たるので大王大妃として君臨した。祖母とはいえイ・サンよりわずか7歳だけ上なのだが、祖母である以上は権力が絶大であった。さらに、イ・サンが1800年に亡くなってその息子の純祖(スンジョ)が即位した時には、キリスト教徒の弾圧を行ない多くの人を死にいたらしめている。
◆純元(スヌォン)王后〔1789~1857年〕
23代王・純祖(スンジョ)の正妻である。傑作時代劇『雲が描いた月明り』の主人公イ・ヨンこと孝明世子(ヒョミョンセジャ)の母親だった。しかし、孝明世子がわずか21歳で亡くなってしまったために、彼の息子が後に国王の憲宗(ホンジョン)となった。
それで、純元王后は国王の祖母ということになり、実家の安東(アンドン)・金(キム)氏が政治を独占する上で重要な役割を果たした。また、25代王の哲宗(チョルジョン)が即位した時も彼女は大王大妃として王権を大いに発揮した。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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