19世紀前半、朝鮮王朝の権力を完全に掌握したのが純元王后(スヌォンワンフ)であった。彼女は23代王・純祖(スンジョ)の正室であったが、一族で要職を固める「勢道(セド)政治」の中心人物だった。
この勢道政治とは、国王の外戚が仕切る政治のことを指しているが、それが可能だったのも、孫の24代王・憲宗(ホンジョン)を背後で操ることができたからだ。
その肝心な憲宗が1849年に22歳で急死してしまった。しかも、彼には後継ぎがいなかった。こうして純元王后が主導する勢道政治は最大のピンチを迎えた。
なにしろ、純元王后は王族の中で意にそぐわない男子を排除ばかりしていたので、そのあおりで王位を継げる人材が欠如してしまったのである。本当に皮肉な状況になってしまった。
困り果てた純元王后がようやく見つけだしてきたのが、江華島(カンファド)で農業をしながら細々と暮らしていた元範(ウォンボム)という18歳の青年だった。
確かに、王族の一人ではあった。亡き憲宗とは七親等の関係だったのだ。とはいえ、田舎暮らしが長すぎたために、まともに学問を受けていなかった。特に大問題だったのは、漢字すらよくわからなかったことだ。
文字を読めない人が王になるというのは、前代未聞なことであった。本来なら国王にするのは無理なのだが、権力を独占する純元王后はむしろ、無学の青年のほうが意のままに操れると思い直した。その結果、憲宗の後継者として元範に白羽の矢が立った。
驚いたのは、当の元範であった。彼の親族は死罪になった人が多かった。それゆえ、王宮から使者がやってきたとき、元範は「死罪にされるのでは?」と勘違いしてしまった。つまり、殺されると錯覚したのである。
そんな心境だったので、彼はオドオドしながら王宮に入ってきた。けれど、純元王后に命じられたのは、25代王として即位するということだった。
こうして漢字を知らない無学の青年が一夜にして国王に変身した。それが、哲宗(チョルジョン)であり、彼の「操り人形」としての人生は1863年まで続いた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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