「王朝の病巣」とまで言われた朝鮮王朝時代の派閥闘争。特に、1720年に19代王・粛宗(スクチョン)が亡くなった後に起こった「老論派と少論派の争い」はあまりに熾烈だった。
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このときは、少論派が支持する景宗(キョンジョン)が20代王として即位した。一方、景宗の異母弟である延礽君(ヨニングン)を支えていたのが老論派であった。
1721年8月、老論派は「景宗に息子がいないこと」を理由にして延礽君を世弟(セジェ/王の正式な後継者になる弟)に指名するように直訴した。
もちろん、老論派は即座に拒否した。延礽君を世弟にすると、万が一、景宗が亡くなると自動的に延礽君が次の国王になってしまうからだ。少論派としては、老論派が天下を取ることは絶対に許せなかった。
しかし、老論派の要求は執拗だった。気の弱い景宗は結局、延礽君を世弟にすることを承認した。
こうなると、老論派が勢いづく。彼らは王が病弱であることを理由に延礽君の代理聴政(王に代わって政治を行なうこと)を突き付けてきた。
このときも少論派が激しく抵抗したが、またもや景宗が老論派の強硬な姿勢に押された。彼は弟の代理聴政を認めたりすぐに取りやめたりを繰り返し、王宮内部を混乱させた。
景宗の優柔不断な性格によって少論派は動揺した。そこで、少論派の過激グループは権勢を回復するために大勝負に出た。
1721年12月、少論派は「老論派の高官たちが謀反を企てている」と対立派閥を糾弾し、老論派の有力大臣の数名を厳罰に処した。こうして政権内部のクーデターを成功させた少論派は、朝鮮王朝の最高職を独占するようになった。
翌年3月には少論派が老論派の粛正に乗り出し、老論派の60人以上の官僚たちを処罰した。この事態に怯えたのが延礽君である。彼は命の危険すら感じた。少論派は延礽君も排除しようとしたが、それは景宗によって中止された。
景宗は弟を大事にする気持ちが強かった。こうして景宗によって命を救われた延礽君は、以降は謹慎を余儀なくされた。一方の少論派は「我が世の春」を満喫したが、その時期は短かった。景宗が即位4年2カ月で急死してしまったからだ。
延礽君が21代王・英祖(ヨンジョ)として即位し、支持していた老論派が復活した。反対に、主を失った少論派が没落した。
まさに急転直下。激しい派閥闘争はこうして終焉した。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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