朝鮮王朝を舞台にした韓国時代劇を見ていると、政治の舞台でよく出てくるのが派閥の名前だ。
西人派とか南人派とか老論派など、こうした派閥が朝鮮王朝の王宮ではひんぱんに出てくるので、これを理解しておかないとドラマの内容がわからなくなる。
そもそも派閥とは何なのか。
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朝鮮王朝の政治において、最初に派閥闘争が起こったのは1575年だと言われている。
国王を支える高官たちが対立をして、東人派と西人派が形成された。そして、相手の派閥を徹底的に攻撃して、自分たちの派閥のメンバーが高い役職に就けるように狙い続けたのだ。
ちなみに、東人派というのはリーダーが都の東に住んでいたからであり、西人派はトップが都の西に住んでいた。
こういう単純な理由で派閥の名前が決まっていたのだ。
その後、派閥は結合と分離を繰り返して、常に2大派閥が対抗するような状態になっていった。
韓国時代劇で一番登場する派閥は南人派と西人派だろう。この2大派閥が拮抗したのは19代王・粛宗(スクチョン)の時代だった。仁顕(イニョン)王后を支持したのが西人派で、張禧嬪(チャン・ヒビン)を支えたのが南人派だ。
それによって、『トンイ』のように張禧嬪が出てくる時代劇には南人派と西人派の争いが出てくるようになる。
それだけに、派閥闘争を知るうえではかならず南人派と西人派の争いを覚えておこう。
もう1つ、派閥争いで重要なのは、老論派と少論派の対決だ。
このときは、張禧嬪が死罪になった後、南人派が没落して勝ったほうの西人派が2つにわかれてしまったのだ。
そして、強硬派が老論派になり、穏健派が小論派になったのである。
この老論派は、思悼世子(サドセジャ)を追い詰めた派閥としてよく知られており、思悼世子の息子だった正祖(チョンジョ)とも対立関係にあった。
このあたりを覚えておくと、ドラマ『イ・サン』の人間関係もよくわかるのではないだろうか。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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