世子(セジャ)は国王の正式な後継者だ。普通に成長すれば、国王が世を去った後に次の国王として即位できる。実際に、世子から順調に国王になった人がとても多い。
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しかし、稀な例もある。たとえば、世子でありながら意図的に命を奪われた人だ。そんなふうに悲惨な最期を遂げた世子として歴史の暗部になってしまったのが、昭顕(ソヒョン)世子と思悼(サド)世子である。
まずは、昭顕世子(1612~1645年)から見ていこう。
16代王・仁祖(インジョ)の長男として生まれ、13歳のときに世子に冊封された。しかし、朝鮮王朝が1637年に清から侵攻されて屈服したとき、人質として清に連れて行かれた。
1645年、ようやく祖国に戻ってきた昭顕世子であったが、清の先進的な統治方法を朝鮮王朝に導入したいと意欲的だったことが命取りになった。清に強い恨みを持っていた仁祖に極度に嫌われてしまい、昭顕世子は帰国して2か月後に急死した。仁祖と側室によって毒殺されたと見られている。
昭顕世子はとても優秀な世子であった。それだけに、彼が殺されたことは朝鮮王朝にとっても大変な痛手だった。
次に取り上げるのは思悼世子(1735~1762年)だ。
彼は21代王・英祖(ヨンジョ)の息子。幼いころは天童と称されて、頭脳明晰であった。英祖の期待も大きく、思悼世子は10歳の頃に早くも政治の表舞台で頭角を現してきた。しかし、当時の主流派閥であった老論派を批判して、高官たちから極度に警戒された。
思悼世子自身にも問題があり、精神的な重圧から逃れようとして素行が乱れてしまった。さらに、老論派の陰謀にもはまり、英祖の激怒によって世子の身分を廃されて自決を命じられた。
しかし、思悼世子は自決しなかったので、英祖によって米びつに閉じ込められて餓死してしまった。英祖が怒りを鎮めていれば起こらなかった悲劇……しかし、結果的に朝鮮王家にとって最も悲惨な出来事が現実に起こってしまった。
その思悼世子の死によってイ・サンが世孫(セソン/国王の後継者となる孫)となり、後に名君になった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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