朝鮮王朝では王位継承者のことを「世子(セジャ)」と呼んだ。皇太子やプリンスと同義語だが、世子候補に挙げられた王子は、4歳くらいになると、初級レベルの儒学を中心にさまざまな教育を受けたという。
カリキュラムは、1日45分の授業を朝昼晩3回。前日および当日覚えた内容を忘れた場合は、罰を受けることもしばしばだったらしい。
【関連】『100日の郎君様』が描く世子の世界。史実では悲劇の世子もいた!!
王は王子の教育水準を見定め、後継者としてふさわしい素養が身についた段階で、世子として定める儀式を執り行った。
世子は朝鮮王朝最大の教育機関・成均館(ソン ギュン グァン)に祀られた孔子の像を参拝する入学礼(イプハクレ)という儀式を受けた後、本格的に帝王学を叩き込まれるのだ。
成均館とは、高麗(コリョ)時代末期から朝鮮王朝時代にかけて名を馳せた最高の教育機関のことだ。
現在の状況に置き換えるならば、官僚養成のための国立大学といった位置づけで、当時は“太学(テハク)”とも呼ばれた。
ちなみにも現在も韓国は成均館大学という名の私立大学があり、ペ・ヨンジュンやソン・ジュンギら芸能人も在籍したことで知られている。
話を世子に戻そう。
上記のように徹底して生活を管理されるストレスからか「世子時代を長く過ごした王ほど短命」であると指摘する歴史学者もいるし、正妃が男子を生まなかった場合、側室との間に出来た子を王に据える場合があった。
第23代王・純祖(スンジョ)は、父王で第22代王の正祖(チョンジョ)と側室である綏嬪朴氏(スクビンパクシ)の間に生まれた子だ。
また、側室が王妃よりも先に男子を産んだ場合、側室が正妻である王妃の座に収まり、結果的にその息子を世子として定める場合がある。
言い変えれば、王妃の地位にいる人物を入れ替えることで、“正統な王子”であるという体面上の辻褄を合せたのだ。
非常にまれなケースだが、第19代王・粛宗(スクチョン)と側室・張禧嬪(チャンヒビン)、そして息子・景宗(キョンジョン)の関係が、これに当てはまる。
なお、王の弟が王位後継者となる場合は世弟(セ ジェ)、孫の場合は世孫(セ ソン)と呼ばれた。第21代王・英祖(ヨン ジョ)が前者にあたり、後者には第22代王・正祖(チョン ジョ)などが含まれる。
文=慎 武宏
【関連】検証!!『100日の郎君様』のような“優れた世子”はホントウにいたのか
前へ
次へ