『100日の郎君様』では、ド・ギョンスが演じたイ・ユルが、記憶も戻って世子として次の国王の座を守った。
しかし、史実では、世子でありながら国王になれなかった人が何人かいる。その代表的な人は、昭顕(ソヒョン)世子と思悼(サド)世子の2人だ。
思悼世子は素行が悪くて米びつで餓死させられたので自分に非があったのだが、本人が悪くないのに国王になれなかった世子の典型が昭顕世子だ。
どんな事情があったのだろうか。
1637年、16代王・仁祖(インジョ)が統治していた朝鮮王朝は、清(中国大陸の大国)との戦いに敗れた。
仁祖は清の皇帝の前で屈辱的な謝罪をして、清への従属を強要された。そして、仁祖の長男の昭顕世子、二男の鳳林(ポンリム)が人質になって清に連れていかれた。
ただし、一応は王子としての待遇も受けた。彼らは清に入ってくる西洋の技術や文化に触れることができた。
2人の清での活動は、仁祖にも細かく報告されていた。仁祖は清の言うことを素直に受け止めていく昭顕世子に気分を害していく。
1645年、昭顕世子と凰林はようやく朝鮮王朝への帰国を許された。昭顕世子はすぐに仁祖に、捕虜時代の生活から清の内情までを報告した。
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このとき昭顕世子は、仁祖が清への憎しみから自分に不信感を持っていることに気づかなかった。西洋文化を楽しそうに語る昭顕世子にカッとなった仁祖は、手元にあったすずりを投げつけて、どなり散らした。
自分がなぜ叱責されたのかもわからない昭顕世子は、しばらくして急死した。
昭顕世子の死は仁祖が関与していると、誰もが疑わなかった。
まず、昭顕世子の遺体の状態が異常で、顔も本人と確認ができないほどひどく腫れあがっていた。
また、仁祖は息子が死んだのに彼の主治医に何の罰も与えなかった。王族が命を落としたら、処分を受けるのが当然だっただけに、この判断は異様だった。
また、仁祖は様々な難癖を付けて昭顕世子の妻や息子たちを粛清した。そのため、本来なら世子になれないはずの凰林が、後に17代王・孝宗(ヒョジョン)として即位した。
今では「仁祖が凰林を王にしたいがために昭顕世子を毒殺した」ということが定説になっている。
なお。昭顕世子のことが描かれたドラマといえば、『トンイ』と同じイ・ビョンフン監督の作品である『馬医』が該当する。第1話で昭顕世子の毒殺のことが題材に使われている。また、『華政(ファジョン)』も後半で昭顕世子のことが詳しく紹介されている。
『100日の郎君様』のイ・ユルも、悪徳高官によって危うく殺されそうになった。ドラマのためには、昭顕世子のように殺されないで良かった。
構成=康 熙奉(カン・ヒボン)
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