朝鮮王朝時代、王宮にいた宮女は700人から1000人くらいまでとても多かった。その中で一番上位にいたのが国王の側室であり、最高峰は正一品の品階を持つ「嬪(ピン)」である。国王の息子を産むと、原則的に「嬪」まで昇格して、女官のトップになれる。
【写真】『トンイ』女優ハン・ヒョジュの大胆ファッションに女優仲間やファンも反応【PHOTO】
それほど大出世を果たしても、朝鮮王朝の法律に触れる大罪を犯すと、死罪になってしまうのだが、その大罪にはどんなものがあっただろうか。
それは、今では考えられないことなのだが、「呪詛(じゅそ)の罪」であった。
つまり、標的にした人物を呪い殺す儀式を行なうことは、朝鮮王朝では死に値する重罪だったのである。
なにしろ、朝鮮王朝時代には人を呪い殺すことができる、と信じられていた。それだけに、呪詛は絶対に禁止されていたのだが、それでも王宮では呪詛事件が多く、それを理由に処分された女官はたくさんいた。
典型的な該当者が、悪女として有名な張禧嬪(チャン・ヒビン)であった。
彼女が事件を起こしたのは、1701年8月に仁顕(イニョン)王后が亡くなったときだった。その際に張禧嬪は、「王妃を呪い殺すための儀式をしていた」と告発されて、粛宗(スクチョン)から激しく糾弾された。
たとえば、1701年9月23日に記録された「朝鮮王朝実録」によると、粛宗は次のように語っている。
「張禧嬪は就善堂(チソンダン/張禧嬪の住居)の西側に密かに神堂を建て、いつも2、3人の怪しげな者たちと(呪詛のための)祈祷をいたという。こんなことが許されるなら、いったいどんなことが許されないというのか」
また、10月8日の「朝鮮王朝実録」には粛宗の次の言葉が載っています。
「張禧嬪が王妃に嫉妬して、宮殿の中や外に神堂を設置して、日夜祈願をしながら凶悪で不潔なものを埋めた。実に狼藉なことで、憤慨するところである。これをそのまま放置すれば、後日に国家の懸念となる。よって、張禧嬪を自害させることを命じる」
こうして張禧嬪は死罪になったのだが、その罪状は「王妃を呪詛したこと」であった。
結局、大罪になってしまうのに、それでも呪詛は王宮の裏で数多く行なわれていた。それほど、命をかけてでも呪い殺したい人が多かった、ということなのか。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【写真】朝鮮王朝3大悪女チャン・ヒビンを変えたイ・ソヨンの知性美とは?
前へ
次へ