朝鮮王朝二大名君の世宗と正祖!子供の数は極端に違っていた

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朝鮮王朝には27人の国王がいたが、それぞれの人物像を見ていくと、名君、凡人、愚人、暴君と様々だった。その中で、偉大な国王として今でも尊敬を集めているのは2人だ。それは、4代王・世宗(セジョン)と22代王・正祖(チョンジョ)である。

世宗は民族独自の文字であるハングルを創製し、聖君としての評価が絶大だ。一方、正祖も優秀な人材を育成して庶民の暮らしに役立つ実学を大いに発展させた。その業績は彼が主人公になった時代劇『イ・サン』の中でもしっかりと紹介されていた。

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このように偉大な2人の国王は人格や生き方の面で素晴らしい模範を見せてくれたのだが、一つだけ顕著な違いを指摘すると、子供の数があまりにも違っていた。

たとえば、世宗の子供はなんと22人もいたのである。内訳を見ると、正室だった昭憲(ソホン)王后が8男2女の10人も産んでいて、他に、5人の側室が合計で10人の王子と2人の王女を産んでいる。本当に世宗は子づくりにも熱心な国王であった。

名君とされる世宗王の銅像(写真=LEE WAN BOK)と『イ・サン』でイ・ソジンが演じた正祖

世宗と正祖を比較

しかし、正祖は違った。彼の子供は4人だけである。しかも、その内の2人は早世しているので、大人まで生きたのは2人だけだった。その中の1人が王位を継いだ23代王・純祖(スンジョ)であった。

このように、子供の数で世宗と正祖を比較してみたのだが、世宗の場合は、子供が多すぎることが後の政変に結びついてしまった。

というのは、世宗の長男・文宗(ムンジョン)の在位がわずか2年と短かったために、世宗の二男・首陽大君(スヤンデグン)が王位に執着しすぎて、彼は文宗の長男だった6代王・端宗(タンジョン)を脅して国王の座を奪ってしまった。さらには、退位したあとの端宗を殺害している。

こうした非道な争いが起こったことも、世宗に息子が多かったことと無縁ではない。王子が多いと、身内同士の骨肉の争いも起きやすいのである。

一方の正祖には王子が1人しかいなかった。これでは、骨肉の争いも起こりようがない。それゆえ、正祖の後継者争いは安泰であった。

このように、正祖は自分が亡くなったあとも決して政変を起こさなかった。その点で彼はまさしく名君であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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