朝鮮王朝三大悪女と呼ばれたのは、張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、張禧嬪(チャン・ヒビン)の3人だ。歴史的に見て、張緑水と鄭蘭貞は正真正銘の悪女であったが、果たして張禧嬪はどうだったのか。彼女は本当に悪女だったのか。そのあたりを検証してみよう。
19代王・粛宗(スクチョン)の側室だった張禧嬪は、1688年に王子を産んだ。粛宗にとって最初の息子だったので、彼はとても喜んだ。
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すでに粛宗の心は仁顕(イニョン)王后から離れていて、彼は仁顕王后の廃妃を決定した。それは、寵愛する張禧嬪が産んだ王子を世子にするために必要なことだった。
空いた王妃の座に張禧嬪が昇格した。彼女は念願の王妃になったのだが、一転して、新しく粛宗の目にとまったのが淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏だった。時代劇『トンイ』のヒロインになった女性だ。
1694年、今度は張禧嬪が側室に戻され、仁顕王后が復位した。
こうして王妃に復位した仁顕王后だが、病弱だったので1701年に世を去った。その後、淑嬪・崔氏によって、張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していたことが告発された。しかし、証拠はなかった。それなのに、張禧嬪は死罪となった。このあたりは疑問が残るところだ。淑嬪・崔氏の言葉だけが信用されたからだ。
それなのに、「善人の仁顕王后」対「悪人の張禧嬪」という評価が定着してしまった。なぜなら、張禧嬪に関する世間の悪評は、仁顕王后の関係者が作為的に作り上げたという側面があった。特に、仁顕王后の兄弟が資金を使って大々的に張禧嬪の悪評をふりまいたという事実があった。こうして、仁顕王后は極端に偶像化され、張禧嬪は悪女の典型のように扱われたのだ。さらに、淑嬪・崔氏も張禧嬪を酷評した。
果たして、張禧嬪は本当に悪女だったのか。実際には、意図的に人物像を歪められた可能性がとても高い。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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