『トンイ』でも描かれた張禧嬪と仁顕王后の運命はどう変わったか

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それは、1680年のことである。粛宗(スクチョン)の母の明聖(ミョンソン)王后は、大変わがままな人だった。特に人の好き嫌いが激しく、粛宗が見初めた張禧嬪(チャン・ヒビン)がとても嫌いで、明聖王后はしばらくして張禧嬪を王宮から追い出してしまった。

その後、1681年に粛宗は再婚して二番目の王妃として仁顕(イニョン)王后を迎えた(最初の王妃はすでに病気で亡くなっていた)。

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しかし、粛宗は新しい王妃を愛することができず、なんとか張禧嬪を王宮に戻そうとしていた。結局、1683年に明聖王后が亡くなったあと、粛宗はすぐに張禧嬪を王宮に戻した。そして、ずっと寵愛するようになった。

仁顕王后としては辛い立場になってしまった。しかも、張禧嬪はわがままな性格だったので、仁顕王后が優しく声をかけても無視するようになった。

『トンイ』でイ・ソヨンが演じた張禧嬪とパク・ハソンが演じた仁顕王后

粛宗の「気まぐれ」が起こした事件

これでは、王妃としての立場がないので、仁顕王后は「あの女はあまりに生意気です」と粛宗に訴え出た。それでも、粛宗は相変わらず張禧嬪のところに通い続けた。

なぜ、そこまで粛宗は張禧嬪に惚れていたのか。

朝鮮王朝の歴史を記した「朝鮮王朝実録」では、張禧嬪のことを絶世の美女のように書いている。やはり、粛宗も張禧嬪の美貌に心を奪われたのだ。

他の歴史書を見ると、仁顕王后も相当な美女であったようだが、それでも粛宗は張禧嬪を選んだ。さらに言うと、仁顕王后は粛宗の子供を産むことができなかった。結局、粛宗の息子を最初に産んだのは張禧嬪であり、これで張禧嬪の立場はさらに強くなった。

こうして、粛宗は1689年に仁顕王后を離縁して実家に帰したあと、空いた王妃の座に張禧嬪を昇格させた。

この時点で張禧嬪は栄華をきわめ、仁顕王后は惨めな境遇となった。しかし、5年後に仁顕王后は再び王妃に復帰して張禧嬪は側室に降格した。すべて粛宗の「気まぐれ」が起こした事件だった。この王は本当に女性問題でトラブルが多かった。こうしたエピソードは『トンイ』でもしっかりと描かれていた。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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