朝鮮王朝は王を頂点とする中央集権国家で王の命令は絶対だと思われがちだが、行政組織の高官ともなると、王の判断が間違っていると確信したら命をかけて諫言する伝統があった。その伝統の中で、高官からもっとも反対意見を出された国王は誰だろうか。それは、間違いなく19代王・粛宗(スクチョン)だろう。
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彼は、「正室の仁顕(イニョン)王后を廃妃にするとき」「側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に昇格させるとき」「張禧嬪を側室に降格させて仁顕王后を王妃に復位させるとき」といった重大局面でことごとく高官から激しく反対されている。
その事情はよくわかる。粛宗があまりにわがままで王室の秩序を守らないので、高官たちがやむにやまれず異議をとなえたのである。しかし、その反対意見をすべて無視して、粛宗は自分の我を通してしまった。
その果てに、1701年9 月25日には「張禧嬪を自決させよ」という王命を発した。理由は「仁顕王后が亡くなったのは、張禧嬪が怪しい者たちと組んで呪いの儀式を続けていたからだ」というものだった。
しかし、張禧嬪が呪いの儀式をした証拠はなかった。もともと仁顕王后は病弱だったのである。それでも、粛宗は張禧嬪を許さなかった。彼女が世子(王の後継者)の母であるにもかかわらず、粛宗は「張禧嬪を自決させよ」の一点張りだった。
次々と高官たちが反対意見を述べた。
「母が死罪になれば世子が悲しみでからだを壊してしまいます」
「臣民たちは世子のために命を投げ出す覚悟があり、命令に従えない場合もあります」
「臣下の者たちが申しているのは人情です。なにとぞお考えを変えてください」
しかし、粛宗は一歩も引かず、高官の意見に反論し続けた。
「世子は善良だが、その母親は悪徳の人物である。生かしておくと、ますます手に負えなくなってしまう」
実際に「朝鮮王朝実録」を読むと、粛宗と高官の対立が延々と続く。それでも最後は王が強い。結局、粛宗は「死罪以外に他の方法がない」と強硬に言い切って張禧嬪を死罪にした。高官たちのどんな反対にも意見を変えなかったのだ。
粛宗というのは、本当に徹底的に超ワンマンな国王であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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