前編では、仁顕王后(イニョンワンフ)が張禧嬪(チャン・ヒビン)を王宮に呼び戻したとこまで語ったが、それは正しかったのだろうか。それでは気になる続きを語っていこう。
仁顕王后の好意は裏目に出て、張禧嬪を寵愛した粛宗(スクチョン)は王妃を廃して張禧嬪を後釜に据えた。このとき、反対する重臣たちに粛宗が語った言葉が「朝鮮王朝実録」に残っているが、自分勝手な論法を無理に押しつけていて、粛宗のわがままな性格が生々しく示されている。
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特に粛宗は「中宮(チュングン/仁顕王后のこと)は嫉妬深く、いろいろなことを悪用して余をだまそうとした」と糾弾し、それを廃妃の根拠とした。そうやって、なんの落ち度もない王妃を1689年に宮中から追い出したのだが、代わって王妃にした張禧嬪への愛がさめると、1694年には「奸臣(かんしん)にそそのかされて間違って処分してしまった」と語って責任を他人に押しつけた。その後に、仁顕王后の復位と張禧嬪の降格を行なった。
こうした朝令暮改のような王妃人事が、どれほど王宮内部を混乱させたことか。
粛宗は政治的に、商業の発達や国防の強化などで業績をあげたが、女性問題では多くの火種をつくった。
しかも、官僚による派閥の対立がますます激化していたのに、王妃の人事はその党争の火に油をそそぐ結果となった。
1701年に仁顕王后が病死した。
その直後に、張禧嬪が祠(ほこら)をつくって仁顕王后を呪っていたことが発覚した。張禧嬪は普段から仁顕王后に不遜な態度で接し、その点では弁解の余地はないのだが、粛宗は臣下たちの猛反対にもかかわらず強引に張禧嬪を死罪にした。
臣下たちが反対したのは、張禧嬪が世子(セジャ/王の正式な後継者)の母だったからだ(仁顕王后には子供がいなかった)。やがて王になる世子の母を死罪にすれば、将来にわたってどんな禍根を残すことになるか。
それ以前にも、10代王の燕山君(ヨンサングン)が母の死罪を知って関係者を大虐殺したという過去があった。粛宗が、その悲惨な出来事を知らないはずがなかったであろうに……。
韓国時代劇『トンイ』では、柔軟な思考を持った優しい王として粛宗が描かれている。この描き方は韓国で粛宗の好感度をあげただろうが、「朝鮮王朝実録」を読む度に浮かび上がってくるのは、粛宗のわがままぶりである。
むしろ張禧嬪は、粛宗に翻弄(ほんろう)された哀れな女性、という言い方ができるかもしれない。
「朝鮮王朝三大悪女」として知られる張禧嬪だが、こうして粛宗に翻弄されているところを見ると、実際には悪女ではなく、粛宗のわがままによって悪女にさせられてしまったのではないかと思う。
もし、粛宗に翻弄されずに王妃のままでいられたら、歴史は今と変わっていたかもしれない。
構成=大地 康
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