『トンイ』でチ・ジニ演じる粛宗(スクチョン)の言動を見ていると、わりと人格者に描かれている。しかも、政治的にもドラマの中では有能だった。
実際の歴史では、粛宗の王としての業績はどうだったのか。
1674年に粛宗が13歳で王位についたとき、朝鮮半島はまだ清に侵略された後遺症から抜けきれていなかった(1637年に朝鮮王朝は清に屈伏し、以後もさまざまな干渉を受けた)。
粛宗は庶民の暮らしを向上させるために、特に農業地の整備に力を注いだ。
同時に、商業を奨励して本格的な貨幣鋳造事業を行ない、市場の活性化にも尽くした。こうした政策は粛宗ならではの独自性があつた。
元来、朝鮮王朝が国教として崇めた儒教は、商業を低く見る傾向があった。礼に基づいた精神世界を語ることこそが高尚とされ、物質的な利潤を求めることは卑下されたのだ。
しかし、粛宗は民生の安定には商業の発展が欠かせないと考え、そのための制度を整えた。
彼が断行した商業政策は、17世紀から18世紀にかけて庶民生活の向上に寄与した。
さらに、粛宗は国防にも力を入れた。辺境地域に城を築いて軍備を増強した。そういう姿勢が、異民族の侵略を未然に防ぐ働きをしたことは間違いない。粛宗は、歴代27人の王の中でも、強力な統率力をもった指導者の一人であった。
そんな彼でも大いに苦慮したのが党争だった。
朝鮮王朝の全体を通して大なり少なりの党争があったが、粛宗の治世時には高官たちが南人(ナミン)派と西人(ソイン)派に分かれて激しく争った。お互いに相手をつぶすために手段を選ばず、宮中はおぞましい策略の巣窟となってしまった。
ただし、粛宗はこの党争を王権の強化に利用していた側面もある。彼は党派の対立を見越したうえで、自分に対して忠誠を尽くす側を厚遇するという手法で王の権威を高めていった。]
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そういう意味で、粛宗はしたたかな政治力をもった王であったともいえる。このように、粛宗は名君と呼ばれても当然な業績を持っていた。
つまり、『トンイ』で描かれた粛宗の政治力は史実とほぼ同じだったのだ。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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