トンイや張禧嬪もそうだった!! 王妃は宮殿でどんな生活をすることなるのか

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朝鮮王朝の歴史を知るうえで欠かしてはいけないものがいくつかある。

その1つが王妃の存在である。王を支えながら家族を守り、王の母に尽くす女性の鑑ともいうべき王妃は、様々な苦労をしている。その王妃が宮廷でどのような生活をしていたのか。

朝鮮王朝時代の王妃は、中殿(チュンジョン)と呼ばれたが、ほかにも国母(クンモ)、内殿(ネジョン)など様々な呼び名があった。王妃は国を司る王を陰で支え、家族を守る儒教の教えの象徴的存在とされた。

制度上、朝鮮王朝社会は一夫一婦制。しかし、王の在位中に王妃が追放されたり、亡くなると、その都度、継妃が迎えられた。このため歴代27人の王に対し、王妃は42人もいた。

『トンイ』で張禧嬪を演じたイ・ソヨン

王妃になった女性の出身階級は、一時、粛宗の王妃になった張禧嬪(チャン・ヒビン)を除いて、全員が貴族階級である両班(ヤンバン)。張禧嬪だけが中人(チュンイン)の出身だ。

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王妃になるには、まず世子嬪(王の後継者である世子の正妻)となり、世子が王位に上がることで、自身も王妃になるパターンが一般的だ。世子嬪は“揀擇(カンテク)”という行事で選出された。

まず、全国の貴族階級である両班の家庭に婚姻禁止令が下される。結婚適齢期の女性が揀擇の対象になるためだ。

対象となる娘がいる家には、その娘の身上書の提出が義務付けられる。厳選な書類審査を通過すれば、3回の面接審査を経て、たった1人だけが世子の妻に選ばれた。

容姿や体型、教養に優れた娘が有利には違いなかったが、有力な家柄の娘は選ばれにくかった。

模範的な妻として民の手本となる

王妃になったときに、その一族が王の外戚として政治に干渉することを警戒されたためだ。世子嬪には、ある程度の官職を持つそこそこの家庭の娘が理想的とされたわけだ。

世子嬪になれば、特に問題を起こさない限り、世子が王になると同時に王妃となった。

王室の結婚式を「国婚(クッコン)」という。国婚は、「王妃を迎える儀式」「世子嬪を迎える儀式」「大君(正室から生まれた王子)が妻をめとる儀式」「王の娘が嫁に行く儀式」の4つに区別される。

中でも、王と王妃の結婚式はもっとも格式が高く、6つの段階にわけて盛大に行なわれた。

まずは、女性に婚姻が決まったことを伝える「納采(ナプチェ)」。続いて、王家からの贈り物を王妃が住む予定の住居に届ける「納徴(ナプチン)」。婚姻の日時を女性に伝える「告期(コギ)」。王妃を正式に指名する「冊妃(チェクビ)」。王が王妃を王宮に連れ帰る「親迎(チニョン)」。先祖に結婚報告をして、祝いの膳を囲む「同牢(トンネ)」の6つだ。

王と王妃の結婚は、国を挙げての祝典となり、数カ月にわたって国中がお祭り騒ぎとなった。

王妃は、王の母である大妃(テビ)に尽くして、模範的な妻として民の手本となる必要があった。

王妃のもっとも重要な役割は、王の後継者を産み、王室の血を後世に残すことである。また、王妃は宮中に務める女官たちの長としての務めも担った。

この続きは後編で紹介しよう。ここまで見てきただけでも王妃の生活がかなり大変だということがわかる。

構成=大地 康

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