ドラマ『トンイ』の主人公である淑嬪崔氏は、本当はどんな女性だったのか

2020年06月19日 歴史 #歴史人物 #大地 康
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ハン・ヒョジュが扮したドラマ『トンイ』の主人公。トンイというのはドラマ用にイ・ビョンフン監督が作った名前で、歴史上では淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)と呼ばれている。

彼女はどんな人生を歩んだのか。

淑嬪・崔氏は1670年に生まれたが、両親のことは不明である。

彼女がどういう経緯で王宮に入ってきたのか。諸説がある。一番よくいわれているのは、身分が低い女性で王宮の水汲み係だったという話だ。他には、仁顕王后(イニョンワンフ)と一緒に王宮に入ってきたという話もある。

粛宗(スクチョン)との出会いで有名なエピソードがある。

粛宗が夜に寝付けなくなって、王宮の中を散策していると、明かりがついている部屋があった。中では、1人の女性が豪華な食膳の前で祈っていた。

「何をしているのか」

粛宗が尋ねると、女性が答えた。

「今日は仁顕王后様の誕生日でございます。今は王宮にご不在ですが、私がお祝いを申し上げております」

その返答に感心した粛宗は淑嬪・崔氏に好意を持った。そして、側室にした……。

この話はできすぎている。粛宗との出会いを装飾する作り話ではないのか。

(写真=ドラマ『トンイ』公式サイト)

当時の政治状況を見ると、西人派が意図的に王宮に送り込んだ女性が淑嬪・崔氏だという可能性が高い。その背景とは何か。

1688年に、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗の長男を産んだ。その翌年には正室の仁顕王后が廃妃となり、張禧嬪が王妃に昇格した。

当時は、仁顕王后を支持していた西人派と張禧嬪を支持していた南人派が激しく争っていたが、仁顕王后の廃妃で西人派が没落しかけていた。

劣勢の西人派が挽回するために、粛宗が気に入るような女性として淑嬪・崔氏を送り込んだのではないか。そんな推察も成り立つ。
1693年に淑嬪・崔氏は粛宗の息子を産んだ。しかし、わずか2カ月で早世してしまった。

1694年4月、「張禧嬪の兄であった張希載(チャン・ヒジェ)が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という告発が粛宗のもとに寄せられた。

王宮は騒然となり、粛宗は重大な決断をした。それは、張希載を済州島(チェジュド)に流罪にしたうえで張禧嬪を王妃から側室に降格させる、ということだった。王妃の座が空いたので、仁顕王后が復位することになった。西人派が巻き返すことに成功したのだ。

淑嬪・崔氏は、1694年の秋に再び粛宗の息子を産んでいる。後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。

1701年8月、仁顕王后が亡くなった。その40日後、淑嬪・崔氏が粛宗に対して「張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた」と告発した。それによって、張禧嬪は死罪となった。

仁顕王后が亡くなって王妃の座が空いたが、粛宗は淑嬪・崔氏を昇格させないで、新たに仁元王后(イヌォンワンフ)を正室に迎えた。

その一方で、淑嬪・崔氏は王宮の外に出されてしまった。なぜ、粛宗は急に淑嬪・崔氏に冷たくなったのか。

ドラマ『トンイ』では描かれていない複雑な関係が粛宗と淑嬪・崔氏の間にあったに違いない。

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