高句麗の末裔か、中国の地方政権か。謎多き国・渤海と大祚榮

2020年05月21日 歴史 #歴史人物
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朝鮮半島北部から中国東北部、一説ではロシアの沿岸地方にまで国土を広げたという海東の盛国・渤海(パレ)。ただ、歴史資料が少なく、多くのことが謎に包まれている側面もある。

確かな史実として残されている記録を辿ってみたい。

まず、高句麗(コグリョ)は668年に中国・唐(とう)によって滅ぼされた。高句麗の遺民数万人と、高句麗と協力関係にあった靺鞨人が、現在の中国・遼寧省に強制移住させられている。農地開拓の労働力として、他にも様々な異民族が集められたという。

696年、その地で契丹人が反乱を起こし、高句麗人や靺鞨人も唐への反旗を翻し、自分たちの故地に戻ろうとした。反乱した多くは唐に鎮圧されたが、大祚榮(テジョヨン)の一団は脱出に成功する。

698年に中国・吉林省に国家を樹立した。国号は「震」、年号は「天統」。これが、のちに渤海と呼ばれる国家の誕生である。

もともとの国名は“震国”なのに、なぜ“渤海”と呼ばれているのだろうか。そこにはこんな経緯がある。震国は建国後、領土を拡大していった。

中国もその勢力を認めざるを得なくなり、713年に唐の皇帝が大祚榮を“渤海郡王”として冊封体制に組み込んだのであった。それから震国は、国号を渤海にしたという。

そんな歴史的経緯を持つ渤海に対して、韓国は「高句麗にルーツを持つ朝鮮民族系の国」と認識し、中国は「中国の王朝から冊封を受けた地方国」と主張している。

そのカギを握るのは、日本という可能性も

その結論のカギを握る国は、もしかすると日本かもしれない。

というのも、日本と渤海は200年もの間、交流を続けていたからだ。建国当初から唐や新羅(シルラ)と対立していた渤海と、百済(ペクチェ)と連合して新羅を攻撃したことのある日本は、協力することで国際的な孤立を逃れようとしたのかもしれない。

韓国・国立博物館に所蔵されている渤海から日本に送られたという外交文書(写真出典=国立博物館)

両国の交流を現代に伝えてくれる史料としては、日本の漢詩集『文華秀麗集』を挙げることができるだろう。そこには、「和渤海入覲副使公賜対竜顔之作一首」という題目で、訪日した渤海使節の詩文が掲載されている。

朝鮮王朝時代から研究が始まったにも関わらず、今も多くの謎を残す渤海。新たな史料は、もしかしたら日本で見つかるかもしれない。

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