江戸時代に朝鮮通信使の宿舎だった広島県・鞆の浦の福禅寺。瀬戸内海の絶景を見渡せる対潮楼には、朝鮮通信使の一行が書き残した様々な書が扁額となって残っている。
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その事情について、対潮楼の担当者がこう教えてくれた。
「朝鮮通信使の人たちは、ここで感激した気持ちを漢詩にしたり、書にしたためています。けれど、最初から額に書いたわけではなく、もともとは紙に書いていたのです。それだといつまで残るかわかりません。そこで、書を残すために、後になって扁額にしました」
その言葉に興味を持ち、もう少し調べてみると、次のようなことがわかった。福山藩の儒者菅茶山らによって、朝鮮通信使が残した書の多くが扁額に刻まれたという。その尽力に頭が下がる。先見の明がある人たちによって、貴重な文化遺産が今に伝えられているのである。
1711年の第8次朝鮮通信使の従事官だった李邦彦(イ・バンオン)が残した漢詩も扁額となって対潮楼に飾られている。その漢詩には「天涯の鞆の浦を去るのは惜しい。さあ、樽前に集まり、勢い盛んに柏酒の杯を傾けよう」という一節があった。樽が出るほどだから、相当な酒量であろう。往時を想像して、こちらまでちょっとホロ酔いになるかのようだ。
第8次朝鮮通信使の副使だった任守幹(イム・スカン)も漢詩を詠んでいる。
「遠く隔たった異国は春にならんとし、雁は帰ろうとしている。幸いに、諸公とこの会に同席している。夜どおし深杯を尽くし、飲むことを妨げるものはない」
こうした一節を見ても、朝鮮通信使の一行がいかに歓迎され、夜遅くまで祝宴が催されたかがわかる。当時、鞆の浦はとても賑わっていた。なぜそれほど栄えたのか。その点について地元の人に話を聞いた。
「鞆の浦は昔から潮待ち港として栄えました。瀬戸内海のちょうど中間に位置していて、ここで潮の流れが変わるのです。なにしろ、干潮と満潮では3m以上も差があって、山口県のほうへ流れる潮と、兵庫県のほうに流れる潮が分かれます。船はここで待機しながら、潮の様子を見きわめるわけです。朝鮮通信使の船がここに宿をとったのも当然でしょう。景色を堪能しながら、いい潮になるのを待つわけですから、なかなか優雅ですよね」
こうした話を聞いても、鞆の浦が瀬戸内海の中で特に重要な場所であったことがよくわかる。けれど、交通手段が鉄道や車が主になり、鞆の浦の立地条件も必然的に変わらざるをえなくなった。人の出入りは少なくなり、今は静かな海辺の町になっている。それがかえって、過去を振り返るのにふさわしい哀愁を呼び起こしてくれる。
文・写真=康 熙奉(カン・ヒボン)
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