NHKで日曜日に放送されている『べらぼう』は、江戸の出版業で成功した蔦屋重三郎(演者は横浜流星)の活躍を描いている。彼が期待していた老中の田沼意次(演者は渡辺謙)は1786年に失脚してしまい、徳川幕府の体制は大きく変わっていった。
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1787年に15歳の徳川家斉が11代将軍となり、老中首座には30歳の松平定信(演者は井上祐貴)が就任した。彼は幕府の中で田沼意次に関係する者たちを一掃して、新しい政治を始めようとした。
それは、「金とコネが横行する政治をやめること」「飢饉で荒れた農村の復興」「高騰した物価の引き下げ」「倹約を重視する社会」などを実現するものであった。こうした松平定信の政策は「寛政の改革」と称された。
徳川幕府が変革をめざす中で、同じ時期に朝鮮王朝も改革の掛け声が高まっていた。1776年に22代王となったイ・サン(正祖〔チョンジョ〕)は、当初は優秀な側近に政治を委ねていたが、1780年代になってから親政を強化した。その際に拠点にしたのが奎章閣(キュジャンカク)である。
この奎章閣はもともと王室図書館という性格を持っており、大切な図書を保管して各種書籍の編集をする場だった。ここに有能な若手官僚や学者が次々と集められた。本来なら身分が低いという理由で重用されなかった人もどんどん奎章閣に採用されたのだ。
それ以前は、厳格な身分制度のために、優秀な人材を生かせない場合が多かった。イ・サンはそのことを問題視して、旧態依然とした人事を変えようと試みた。
実際、低い身分の若手に重責を与えると、想像以上に能力を発揮していった。手応えを感じたイ・サンは、奎章閣の機能を1780年代後半に強化し、ここを中心にして様々な改革を進めていった。
その改革の中心は、実学の奨励である。生活の向上に役立つ技術や知識を高めるというのが、イ・サンが特にめざしたことだった。そういう意味で、1780年代後半というのは、日本も朝鮮半島も「政治改革」が大きなキーワードになっていた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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