【韓ドラになった歴史人】映画『観相師』に登場した文宗は運命の翻弄された国王だった

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朝鮮王朝第5代王・文宗(ムンジョン)といえば、時代劇では『王と妃』でチョン・ムソン、『大王世宗』でイ・サンヨプ、『王女の男』でチョン・ドンファンが演じていた。一方の映画では『観相師-かんそうし-』でキム・テウが扮した国王である。

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朝鮮王朝には27人の王がいたが、その中には歴史の影に埋もれ、注目される機会が少ない王たちもいる。文宗もその1人である。彼は、ハングル創製で名高い4代王・世宗(セジョン)の長男として1414年に生まれ、幼い頃から学問を愛し、天文学や算術などに卓越した知識を持っていた。

文宗は長く世子(セジャ)の地位にあったが、父・世宗の健康悪化に伴い、1442年から実質的な政務を担うことになる。

臣下の反対で正式な決裁権は遅れたが、彼の補佐は政務において大きな支えとなった。8年にわたる摂政ののち、1450年に王位を継ぐも、彼の治世はわずか2年に過ぎなかった。

文宗の政治姿勢は父に似て温厚かつ慎重であったが、その穏やかな統治はかえって王権の弱体化を招き、弟の首陽大君(後の第7代王・世祖〔セジョ〕)や安平大君らが勢力を強める結果となった。

『観相師-かんそうし-』
映画『観相師-かんそうし-』ではキム・テウが文宗を演じた
(写真=SHOWBOX/MEDIAPLEX AND JUPITER FILM ALL RIGHTS RESERVED)

儚くも高潔な存在

自らの死後、幼い王子・端宗(タンジョン)に王位を託すことを案じた文宗は、忠臣である金宗瑞(キム・ジョンソ)と皇甫仁(ファンボ・イン)に補佐を任じ、王朝の安定を図ろうとした。

だが、文宗の人生を語る上で欠かせないのは、宮廷で起きた幾つもの悲劇である。13歳で迎えた最初の正室・金氏との結婚は政略的なもので、心の通うものではなかった。

夫婦仲は冷え切り、金氏は夫の愛を得ようと奇薬に手を出した末に「妖術使い」とされ、宮廷から追放された。名門の恥とされた彼女は父親によって命を奪われ、父も後を追って自害するという壮絶な最期を遂げる。

2人目の正妃・奉氏との結婚もまた破綻し、奉氏は心の寂しさを侍女との関係に向けたことで「不貞」とされ、宮廷を追われた末に自ら命を絶つ。この二度にわたる妃の悲劇にも関わらず、父・世宗は息子を責めず、後宮を整えて彼を静かに支えた。

やがて文宗は、心から信頼できる女性と出会う。後に顕徳(ヒョンドク)王后となる彼女との間に2人の娘と待望の男子・端宗を授かる。しかし、幸福な時間は短く、王后は出産後ほどなくして他界。深く傷ついた文宗はその後、正室を迎えることなく生涯を終えた。

王としての即位は果たしたものの、文宗はもともと病弱で、1452年にわずか在位2年で崩御。彼の治世の間に、軍事や対外関係を記録した“東国兵鑑(トングッピョンガン)”が編纂されたことは、静かながらも確かな業績である。

文宗の人生は、派手さこそなかったが、父・世宗を支え、幼い息子に未来を託し、苦しみの中にあっても人としての誠実さを貫いた姿がある。まるで王冠の陰でひっそりと咲いた百合のように、儚くも高潔な存在だったと言えるだろう。

【文宗(ムンジョン)の人物データ】

生没年
1414年~1452年

主な登場作品()内は演じている俳優
『王と妃』(チョン・ムソン)
『大王世宗』(イ・サンヨプ)
『王女の男』(チョン・ドンファン)
『観相師-かんそうし-』(キム・テウ)

文=大地 康

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