【史実でさぐる『善徳女王』】弱かった新羅はどうして強国になれたのか

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7世紀前半の新羅(シルラ)を舞台にして古代の三国の競い合いを壮大に描いた『善徳女王』。イ・ヨウォンが主役の善徳(ソンドク)女王を華やかに演じているが、ドラマの理解を深めるために、改めて新羅がどんな国であったのかを説明していこう。

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新羅は建国が紀元前57年になっているが、建国当初から数百年の歴史は神話に彩られた部分が多く、歴史的に検証されているわけではない。そういう事情があり、歴史的に信憑性を増していくのは3世紀以降のことだ。

その頃から7世紀まで朝鮮半島は三国が激しく領土争いをした。それによって「三国時代」と呼ばれるのだが、新羅と覇を競ったのは、朝鮮半島の北部を領土にした高句麗(コグリョ)と、西南部を支配した百済(ペクチェ)であった。

特に、高句麗は騎馬民族をベースにして武力が最も強く、百済は領土が肥沃であったために農作物に恵まれていた。その一方で、朝鮮半島の東南部を領土にした新羅は、高句麗や百済に比べて劣勢だった。それは、支配地域が山間部ばかりで、農業の収穫があまり期待できなかったからである。

そういう弱さを自覚していた新羅は、若者たちの教育に大変熱心になり、人材育成で国を強くしようと試みた。そうした育成組織が「花郎(ファラン)」であり、「花郎」を通して若者たちを文武両道で鍛え上げたことが、新羅の発展につながった。

三国時代
三国時代の勢力図

三国時代の勝者

7世紀になると、632年に善徳女王が即位した。彼女は当初、中国の唐の協力を得ようとしたが、それが叶わなかった。しかし、中国に頼るのをやめて若手を積極的に登用して人材の活性化をはかった。この戦略が功を奏して、一気に新羅の国力がアップした。

後には唐と連合することも可能となり、660年に百済を倒し、668年には高句麗を滅ぼした。その後は唐の勢力を追い出して,676年についに朝鮮半島で初めての統一国家を築き上げた。こうして、弱かった新羅が最後には「三国時代の勝者」になったのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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