【朝鮮王朝の泣ける裏面史】イ・サンが父・思悼世子を助けたいと哀願したときは何歳?

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21代王・英祖(ヨンジョ)が、世子だった息子の荘献(チャンホン)に激怒して非常事態を宣言したのは、1762年閏5月13日だった。官僚の一部が荘献の謀反を告発していたし、荘献の素行の悪さも問題となっていた。しかし、荘献と対立していた老論派の策略で荘献が不利な立場に陥っていたことも否めなかった。

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急に呼び出されて父の前に出てきた荘献が見たのは、刀をふりかざして怒りまくっている英祖の姿だった。

荘献は冠を脱いで、頭を地面にこすりつけた。

「許してください。もう二度と怒られることはいたしません」

荘献はこのように懇願したが、英祖は怒りのままに断言した。

「自決せよ。今ここで自決するのだ」

その言葉を聞いて驚いた荘献は、顔をこわばらせて震えていた。高官たちが英祖の前に集まったが、もはや彼らもどうすることもできなかった。それほど英祖の怒りはすさまじかった。

『赤い袖先』のイ・サン
ドラマ『赤い袖先』ではジュノ(2PM)がイ・サンを演じた(NBCユニバーサル・エンターテイメント/©2021MBC)

英祖の後悔

そんなとき、英祖の前に進み出てきたのは、荘献の息子のサンであった。サンは荘献の後ろにひざまずいて、英祖に「父を許してください」と必死に懇願した。彼は、父を助けたい一心で必死に父の助命を祖父に頼み込んだ。しかし、英祖は孫の意見に耳を傾けなかった。仕方なく、サンは帰されてしまった。

結局、最後まで英祖の怒りが解けず、荘献が自ら自決しようとしなかったので、彼は米びつに閉じ込められてしまった。

英祖には荘献を許す気持ちが毛頭なかった。荘献が米びつの中で息絶えていることがわかったのは8日目だった。

亡くなってから英祖は息子への哀悼の気持ちを表し、諡(おくりな/死後に贈る尊称)を思悼世子(サドセジャ)にした。

もっと早く英祖が冷静になっていたら……。悲劇は起こらなかっただろうが、いずれ荘献が廃位されることは間違いなかったはずだ。

この大事件があったあと、イ・サンは父の代わりに世孫(セソン/国王の正式な後継者となる孫)となった。父を救うために英祖に懇願したとき、イ・サンは10歳であった。

文=大地 康

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