朝鮮王朝の王宮は恐ろしいところだった。それは、権力をめぐる陰謀があまりに多かったからだ。そのあたりは、韓国時代劇がよく描いているが、中でも極めつけの悪女とされたのが文定王后(ムンジョンワンフ)であった。その背景を解説していこう。
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11代王・中宗(チュンジョン)には3人の王妃がいた。一番目が端敬王后(タンギョンワンフ)、二番目が章敬王后(チャンギョンワンフ)、そして三番目が文定王后(ムンジョンワンフ)だ。
悪女として知られている文定王后は、存命中にいったい何をしたのだろうか。
二番目の王妃である章敬王后が息子を産んで6日後に亡くなったことで、三番目の王妃として迎えられたのが文定王后だ。
章敬王后の息子を育てることになった文定王后だが、1534年に自分の息子を産むと、「我が子を国王にしたい」と欲を出した。しかし、朝鮮王朝には「長男が跡継ぎになる」という原則があった。
それでも、自分に息子を国王にすることを諦めなかった文定王后は、世子の屋敷に火を放って命を狙ったが、失敗に終わってしまう。
1544年に中宗が世を去ると、世子だった章敬王后の息子が12代王・仁宗(インジョン)として即位する。しかし、仁宗は即位からわずか8カ月で世を去ってしまう。彼が亡くなった理由は、継母である文定王后に毒殺されたからではないかと言われている。
その後、文定王后の息子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した後、政治を代行した文定王后は、一族で要職を独占して賄賂政治を横行させた。当時は日照りが多くて、餓死する民衆が多かったのだが、文定王后は何の対策も取らず、苦しむ人々を見捨てた。政治を行なう立場としては、最悪の人であった。
こうして、王朝を堕落させた文定王后は、1565年に世を去った。悪評にまみれていた彼女の人生を振り返ると、私腹を肥やして民衆を苦しめた非道な悪女であった。
文=大地 康
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