大河ドラマ『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』では、李成桂(イ・ソンゲ)の二男であった芳果(バングァ)をキム・ミョンスが演じた。彼は貫禄がある演技を自然体でできる俳優で、自分が扮する芳果という役を堂々たる存在にしていた。
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とはいえ、芳果の歴史上の立場というのは、薄氷を踏むかのように弱々しいものだった。その点を史実で明らかにしてみよう。
1398年、李成桂の五男であった芳遠(バンウォン)が世子の芳碩(バンソク)を殺して最大の実力者に上り詰めた。本来なら、彼が世子になるのが当たり前なのに、民衆の反感を恐れて一歩身を引いた。代わって世子に推挙されたのが芳果であった。彼は李成桂の譲位によって1398年9月に2代王になっている。
しかし、国王といっても、ほとんど実権がない立場だった。一番の実力者は芳遠であり、彼が政策を全て指示していた。それゆえ兄とはいえ芳果はお飾りの国王にならざるを得なかった。
そんな身分を芳果もわきまえていて、彼は政治に深入りしなかった。太鼓を打つことを楽しみ、趣味に没頭して芳遠に憎まれないように生き抜いた。そういう点では、臆病ながら警戒心がとても強かったのである。
彼の妻は1人だけで子供はいなかったが、9人の側室を抱えて彼女たちが合計で17人の息子と8人の娘を産んでいる。これだけ側室を多く抱えたということも、芳果なりの処世術だったのかもしれない。政治に関心がないことを常に示す必要があったのだ。
『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』の中で芳果と芳遠の対立が深刻になっていったが、史実では事情が違う。あくまでも芳果は芳遠に殺されないように警戒しながら生きて、1400年11月に自ら王位を退いて芳遠に譲っている。在位したのは2年2ヶ月である。
その後の芳果はますます趣味に没頭し、1419年に62歳の生涯を終えている。諡(おくりな)は定宗(チョンジョン)である。芳遠に殺されずに済んだという意味では、望み通りの人生だったかもしれない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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