時代劇『赤い袖先』は国王と宮女の究極の愛を描いた傑作であったが、メインのストーリーと別に興味深かったのが宮女の描き方だった。彼女たちは心血を注いで王族の世話をしていた。そうした姿が『赤い袖先』では生々しく描かれていて、ドラマを見ていると王宮に奉職している宮女の生活ぶりがよくわかった。
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その一方で、壮麗なる王宮で政治の渦中に身を投じ、陰ながら宮廷の運命を操る謎多き宮女もいた。彼女らは単なる「その他大勢」の世話係ではなく、立派な政治勢力でもあった。つまり、「私はただの世話係ではない」と力強く主張できる存在となっているのだ。時には妖艶な側室たちの心を掴み、国王にさえ深く影響を及ぼすこともあった。
そんな宮女たちは、果たしてどれほどの数がいたのだろうか。朝鮮王朝においては、時の流れと共に宮女の数も変動していたが、最も華やかな時代である16世紀には、なんと1000人を超える宮女がいたという。その壮大なる光景は、まさに圧巻であっただろう。
しかしながら、数が多ければ多いほど、厳格な管理が求められるものだ。宮女たちに課された最も厳しい掟は、男女の恋愛の禁止である。表面上、彼女らは「国王と結婚している」と見なされ、男性との関係は厳禁となっていた。
もしも禁を犯して男性との関係が露見した場合、彼女たちは一切の弁解も許されず処罰された。それでも、禁を犯す宮女が後を絶たなかったという。なぜならば、男女の恋愛は、いかなる時代においても抑えがたい強力な衝動だからである。
とはいえ、大多数の宮女は男性との恋愛から身を引き、規則を守り抜く。その結果として起こりうるのは、女性同士の同性愛の増加である。16世紀に宮女の数が多かった時代には、同性愛が宮廷内での重要な課題となっていた。
以上のように、厳格な掟に縛られ、時には激しい恋愛の渦に飲み込まれながらも、宮女たちは朝鮮王朝の王宮で確かな存在感を放っていた。哀しくも愛おしい宮女たちの足跡は、王宮の華やかな歴史の一頁を飾るにふさわしいと言える。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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