時代劇『赤い袖先』は、イ・ジュノとイ・セヨンが国王と宮女の究極的な愛を演じたドラマだが、歴史の重みを感じさせたのが、イ・ドクファが演じた英祖(ヨンジョ)であった。
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とはいえ、実際に52年間も王位を守った彼の業績はドラマの中ではあまり語られていなかった。そこで、改めて英祖の隠れた業績に焦点を当ててみよう。
その中で特に強調しなければならないのは、英祖が「人権派の国王」であったということである。その最たる事実として彼は刑罰を根本的に改革した。
例えば、彼が即位した当時、罪人の膝に無慈悲にも圧倒的に重い石を乗せて骨を押しつぶすという、残酷極まりない刑罰が冷酷に行なわれていた。これは、罪人にとっては地獄のような、死ぬほどの苦痛であった。英祖はその刑罰の非人道的な性質を深く悟り、迅速にその凄惨な刑罰を廃止させた。それは1725年のことだ。
さらに、1729年になると、英祖は死刑囚に対して非常に革新的な法律を適用させた。その法律は「三覆法」と呼ばれ、死刑囚に対して審理を三回行なうという、当時としては斬新な制度であった。今日ではこの制度は当たり前となっているが、300年近く前にこれを実行していたことは、罪人の人権を大切にして守ろうとしていたことの表れであろう。
また、英祖は刑罰の改善に向けて積極的に取り組み続け、1774年には、罪人の顔に罪名を無慈悲にも刻みつけるという、野蛮でリンチのような刑罰さえも、彼自身の権限を行使して廃止させた。
英祖以前と以後では、罪人への仕打ちが劇的に変化し、拷問の様相も一新されていった。それは、英祖が一貫して罪人の人権を守るために、献身的に努力し続けた結果である。
しかしながら、一体なぜ彼は自分の息子であった思悼世子(サドセジャ)を無慈悲にも米びつに閉じ込めて餓死させるという残酷な行為に及んだのだろうか。それは本当に「歴史の謎」になっているが、後悔した英祖は思悼世子の息子であったイ・サンを立派に導いて名君になる道を開いてあげた。その点でも英祖は業績がとても多い国王であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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