22代王イ・サンの側近として絶大な権力を手に入れた洪国栄(ホン・グギョン)。彼はついに自業自得となった。自重していれば、長く権力を維持できたのに、結局は大罪で処分されてしまったのである。
【歴史コラム】親戚とはいえ名君イ・サンは洪国栄を重用しすぎてしまった
どこで歯車がおかしくなったのか。一番いけなかったのは、自分の妹をイ・サンの側室として王宮に送り込んだことだ。そのような使命を負わせた元嬪(ウォンビン)に対して、兄の洪国栄は「殿下の子供を産め」と厳命した。しかし、元嬪は側室になって1年ほどで子供を産まないまま亡くなってしまった。
哀れな妹を思って、洪国栄は号泣した。その末に、彼はおかしな強迫観念にとらわれるようになった。
「妹は王妃によって毒殺されたのではないか」
こう考えること自体が、もはや常軌を逸していた。孝懿(ヒョイ)王后は温厚な性格でよく知られており、人柄がとても良かった。それだけに、側室の暗殺をはかるような女性では決してなかったのだ。それなのに、洪国栄は逆恨みをして、孝懿王后が妹を殺害した黒幕だと決めつけるようになった。
「かならず仇(かたき)を取ってやる」
そう覚悟を決めた洪国栄は孝懿王后の食事に毒を盛ろうとした。しかし、このことはすぐに発覚した。
イ・サンは、政治改革の担当者として洪国栄に厚い期待を寄せていた。しかしながら、驚くべき計画が明らかとなり、彼の信用は完全に失墜した。それでも、イ・サンとしては洪国栄を死刑にすることには心の奥底でためらいがあった。彼は権力を掌握して人が変わってしまったのだが、かつては実績に富む重要な側近であった。
その功績を鑑み、イ・サンは処刑するのではなく洪国栄を地方へと追放する決断を下した。こうして、洪国栄は命を断たれることがなかった。政治的には完全に息の根を止められたのだが……。
以上の出来事は1780年2月に起こった。洪国栄が繁栄の頂点にいたのは、1776年にイ・サンが即位してからわずか4年間にすぎなかった。本来なら長くイ・サンを支える立場でいられたはずなのに……。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【本当は怖い⁉】名君イ・サンのゾッとするような「裏の顔」とは?
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