高麗王朝は一夫多妻制を採用していたが、その高麗王朝を倒して建国された朝鮮王朝では、一夫一婦制が基本となった。ゆえに、国王といえども、妻は1人しか持てなかった。その代わり、多くの側室を抱えたのである。
【関連】【歴史コラム】粛宗の功罪…党争と恋愛トラブルの渦中で何をしたのか
ただし、王妃が亡くなったり離縁されたりすると、国王はすぐに新たな妻を迎えた。だからこそ、人生で複数の妻を持った国王が多かったのだが、それでも4人の妻を迎えた国王はたった1人しかいなかった。
それは誰であろうか。
実は『トンイ』でもおなじみの19代王の粛宗(スクチョン)なのである。
彼の初めての妻は仁敬(インギョン)王后であったが、1680年に19歳の若さで亡くなってしまった。天然痘が死因になったと伝えられている。
次に粛宗の妻になったのは仁顕(イニョン)王后だ。彼女は1689年に廃妃(ペビ)に落とされたものの、1694年に再び王妃の座に復帰した。しかし、1701年に彼女もまた、子供を残すことなくこの世を去った。
粛宗の三番目の妻は、側室から昇格した張禧嬪(チャン・ヒビン)である。彼女は世子(セジャ)の母親となった女性でもある。しかし、1694年に側室に降格し、1701年に死罪の憂き目に遭い、悲劇的な最期を遂げた。
粛宗は、このように3人の王妃と結婚していたが、仁顕王后が1701年に亡くなったときに、次の王妃選びが大問題となった。そのときは、側室の淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が最有力候補だった。
しかし、粛宗は先手を打つ。それは、「側室から王妃に昇格することはできない」という新たな法律を制定したのだ。淑嬪・崔氏を狙い撃ちにしたかのようなこの法律には、粛宗が抱いていた何らかの意図があった。
というのは、淑嬪・崔氏に対して不信感があったことは確かであり、粛宗は淑嬪・崔氏を王妃にする意思を持たなかったのだ。そして、選ばれたのが仁元(イヌォン)王后であった。
1701年に王宮に招かれた彼女は、翌年に正式に王妃に昇格した。1687年の生まれで、淑嬪・崔氏より17歳も年下の清新な麗人であった。
仁元王后は、高い家柄の重臣の娘で、王妃の座にふさわしい資格を有していた。また、14歳という年齢で王妃になった彼女からは、王子を産むことが大いに期待された。しかしながら、結果として彼女は子供を授かることはできなかった。その代わり、粛宗が1720年にこの世を去った後も、仁元王后は大妃(テビ)として存在感を大いに示した。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】【復活!粛宗と仁顕王后】衝撃の離縁劇からの再会はどのように実現したのか
前へ
次へ