張禧嬪(チャン・ヒビン)が王宮に入ってきたのは1680年頃であり、死罪で命を落としたのは1701年だ。彼女にとってその21年間は果たして何であっただろうか。
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朝鮮王朝の歴史を記した「朝鮮王朝実録」によると、張禧嬪は絶世の美女であったという。普通、「朝鮮王朝実録」の元になる日誌を書いた史官は女性の容姿について触れることはないのだが、張禧嬪に関しては何度もその美貌を讃えられている。公平性を信条としていた史官でさえ、張禧嬪の美しさを書かずにはいられなかったのだろう。
張禧嬪の人生を見ていくと、王宮に入って女官となった後、粛宗(スクチョン)に見そめられて側室になり、王子を産んだ後に王妃にまで成り上がっていった。その後に再び側室に降格となり、最後は仁顕(イニョン)王后を呪うための呪詛(じゅそ)を行なった罪を問われて死罪になっている。
朝鮮王朝の人物を調べてみても張禧嬪ほど波乱万丈の人生を歩んだ人はいない。それゆえ彼女はドラマにも多く登場し、今の韓国でも強烈にその存在を知られているのである。
このように、張禧嬪は悪女としてあまりにも有名なのだが、露骨に人を陥れたという記録は残っていない。わがままで周囲から批判されたかもしれないが、極端に悪事を働いて人を傷つけたという確証はないのだ。
確かに仁顕王后を呪詛した罪には問われたが、彼女が本当に呪詛したかどうかの確証は得られていない。場合によっては冤罪という可能性も否定できないのだ。それでも張禧嬪がこれほどの悪女と呼ばれてしまうのは、その美貌によってあまりにも羨望の対象になってしまったからだ。
実際、一介の女官に過ぎなかったのに王妃にまで登り詰めているのだから敵も多かったかも。つまり、「羨望」は逆に強烈な「嫉妬」を生んでしまった。その結果、張禧嬪の実像は歪められ、悪女の代名詞になってしまった。
朝鮮王朝の王族女性を見ると、女帝として振る舞って多くの人を死に至らしめている悪女が何人もいる。それに比べると張禧嬪はえげつないことは何もしていない。それなのに最後は死罪になってしまった。その一番の原因は粛宗に飽きられてしまったということに尽きるのではないか。
この国王も本当にわがままな人間であった。そんな粛宗に気に入られて女性最高の地位を得た張禧嬪は、最後は粛宗に捨てられて死を選ばざるを得なくなった。彼女こそが粛宗の犠牲者であったと言えないだろうか。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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