ドラマ『イ・サン』の前半を見ていくうえで、絶対に欠かせない知識が「老論派(ノロンパ)はどういう派閥なのか」という事実だ。なぜなら、イ・サンが世孫(セソン)として次代の国王になる過程で徹底的に反抗したのが老論派だったからだ。
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まずは、老論派の歴史から見ていこう。
もともと老論派は西人派(ソインパ)から分裂した派閥だ。本来の西人派は、19代王・粛宗(スクチョン)の統治時代に仁顕(イニョン)王后や淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ/『トンイ』の主人公となった女性)を支えていた。反対に、張禧嬪(チャン・ヒビン)を支持していたのが南人派(ナミンパ)だった。
しかし、張禧嬪が1701年に死罪となって南人派も没落してしまった。これによって西人派の天下になったのだが、内部で意見対立があって強硬派と穏健派に分裂した。そして、強硬派が老論派になり、穏健派が少論派(ソロンパ)になったのだ。
1720年に粛宗が亡くなって景宗(キョンジョン)の統治が始まると、少論派のほうが強くなっていった。なんといっても景宗を支持していたからだ。そのとき老論派は冷や飯を食っていたのだが、1724年に景宗が急死して英祖(ヨンジョ)が即位すると、一転して党勢が拡大した。英祖の後ろ盾になっていたという事実が大きかった。
以後、52年という長い間在位した英祖の時代は、まさに老論派が政治の主導権を握っていた。しかし、そんな老論派を批判していたのが思悼世子(サドセジャ)であった。
もし彼が即位したら老論派は没落してしまっただろう。その危機感から老論派は思悼世子の即位を阻むために暗躍して、結局は思悼世子の排除に成功した。
その一部始終を見ていたのがイ・サンであり、彼は老論派の陰謀を見抜いていた。それゆえ、イ・サンが世孫のときから老論派はその即位を邪魔した。
このような背景をあらかじめ知っておくと、イ・サンが命を狙われた理由も歴史的な問題として理解できるようになるだろう。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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