【知られざる名君秘話】王位継承3位が兄2人を差し置いてなぜ国王になれたのか

2023年01月22日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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朝鮮王朝初期の大王であった3代王・太宗(テジョン)にはたくさんの子供がいた。その数29人。その中で正室の元敬(ウォンギョン)王后が産んだ子供は息子4人に娘4人だった。

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太宗は「家督を継ぐのは長男」という儒教の原則を守り、長男の譲寧(ヤンニョン)を世子に決めた。

それでも、太宗は悩んでいた。譲寧より三男の忠寧(チュンニョン)のほうがはるかに優秀だったからだ。実際、太宗は忠寧に王の資質を感じていた。

父の悩みに譲寧も気が付いていた。

「聡明な忠寧が王になったほうがいい」

そう考えた譲寧は大胆な行動に出る。なんと、不良を装ったのだ。大酒を飲んで王宮を勝手に抜け出しては放蕩を繰り返した。

ソウル中心部にある世宗の像

世宗の功績

太宗は譲寧を何度も叱りつけたのだが、効果はなかった。激怒した彼はついに重大な決断を下した。それは、譲寧の王位継承権を剥奪するというものだった。

この決定に驚いたのが二男の孝寧(ヒョニョン)だ。彼は自分が世子に指名されることになると自覚し、それまで以上に勉学に励んだ。

そんなある日、孝寧は譲寧から重大な事実を打ち明けられる。それは、世子を忠寧に変えるためにわざとトラブルを起こしていたということだ。

その言葉を聞いた孝寧は、ようやく自分の立場をわきまえた。兄の思いを知った孝寧は自ら王位継承の権利を辞退したのである。

こうして、2人の兄の思いを受けて忠寧は世子に指名された。すると、太宗はまだ元気なうちに息子に王位を譲りたいと決意し、自ら譲位を宣言した。

1418年、忠寧は4代王・世宗(セジョン)として即位した。

彼は最初こそ太宗に遠慮していたが、その父が1422年に亡くなると、独自の統治を開始した。有能な人材を積極的に登用して、実学と文化を発展させた。

そんな彼の悩みが民族固有の文字がないことだった。難しい漢字を使えるのは特権階級だけであり、世宗は庶民が簡単に使える文字の普及をぜひ進めたいと考えた。そして、優秀な学者を集めて昼夜を問わず研究を進めた。そうして作られたのが「訓民正音(フンミンジョンウム)」であり、今はハングルと呼ばれている。

「訓民正音」は1446年に公布された。この功績によって世宗の名声は不滅になった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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