【深発見24】 百済と日本の密接な関係と近肖古王の権勢

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一般に百済の遺跡と言えば、武寧(ムニョン)王陵のある公州や、最後の都となった扶余(プヨ)が有名であり、ソウルの百済遺跡と言っても、ぴんと来ないかもしれない。

しかし高句麗で広開土王が即位する45年前の346年に百済第13代の王に即位し、韓国歴史ドラマの主人公にもなっている近肖古(クンチョゴ)王の時代は、初期百済の全盛期であり、日本とも深い関係にあった。

313年、漢の出先機関として平壌(ピョンヤン)付近に存在した楽浪郡は、高句麗によって滅ぼされた。楽浪郡をはじめとする漢四郡は、朝鮮半島を監視する迷惑な存在ではあったが、当時としては最先端の中国の文化に接することができ、重宝していたのも確かだ。

【サク読み韓国史】高句麗、百済、新羅がしのぎを削り合った三国時代

楽浪郡がなくなった後、中国の文化をどう吸収するかは、朝鮮半島南部の国々や、日本にとっても重要な問題であった。

そうした中、もともと中国との交流が盛んであった百済は、楽浪郡の流民を受け入れ、彼らを架け橋として中国の文化を吸収して、急速に勢力を伸ばしていった。風納土城の発掘現場からも、中国の遺物が出土している。

近肖古王は371年に高句麗にまで兵を出して平壌城を攻撃し、広開土王の3代前の王である故国原(コググォン)王を戦死させている。

その一方で、新羅、朝鮮半島の南部に存在した伽耶(カヤ)、さらには日本とも外交関係を持っていた。奈良県天理市の石上神宮にある7つの枝を持つ不思議な形をした刀である七支刀は、369年、この近肖古王から贈られたものである。

近肖古王の権勢がどれほどのものであったか。それは、風納土城の南西にある石村(ソクチョン)洞の百済古墳群を見れば推察できる。

大小様々な古墳が点在するこの古墳公園において、一際目を引くのが、一辺が50メートルもある方墳の石村洞3号墳である。この古墳の埋葬者が、近肖古王であるとされている。

近肖古王の墓とされる跡地

しかもこの古墳で特徴的なのは、積石塚という、独特のスタイルであることだ。石を一つ一つ積み上げて作られたこの古墳には、根気強さと、技術の高さが感じられる。

この積石塚というスタイルは、遠くシベリアをルーツとするとされ、中国東北部や朝鮮半島北部といった、高句麗の地域でよく見られる。積石塚で有名なのが、中国の吉林省にある高句麗の遺跡である将軍塚であるが、石村洞3号墳は、規模の面でそれを上回る。

伝説の上では、百済の始祖である温祚(オンジョ)王は、高句麗を建国した朱蒙(チュウモン)の子供とされており、両者は、交流と戦闘を繰り返しながらも、密接な関係にあった。

もし石村洞3号墳が近肖古王を祀ったものであるとすれば、この墳墓のスタイルは、代々続く高句麗との交流の中で伝来したものなだろうか、それとも、平壌城を攻撃した際に、技術者を連れ帰ったものなのだろうか。

石村洞の古墳群の北側には、ロッテワールドがあり、遊具に興じる子供や若者たちの悲鳴や歓声が響き渡る。その周りは住宅街だ。その中に、静かに存在する古墳群であるが、この遺跡は、ソウルに百済がしっかりと根を下ろしていたことを物語っている。

文・写真=大島 裕史

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