高句麗・長寿王の時代の475年、高句麗軍は慰礼城を攻略し、百済の蓋鹵(ケロ)王を捕らえ、峨嵯山の辺りで殺害した。百済は慰礼城を追われ、熊津(ウンジン)、今の公州(コンジュ)に都を移した。
峨嵯山を巡る攻防は、これで終わったわけではなかった。
熊津に逃れた百済は、中国の南朝と手を結び次第に勢力を取り戻していった。さらに6世紀半ば、高句麗が北方勢力との攻防に力を奪われている隙を突き、新興勢力であった新羅と組んで、漢江流域に攻め上がり、551年、漢江流域の奪還に成功する。
しかしここで新羅が裏切り、百済の故地を占領してしまった。それに激怒した聖(ソン)王(「日本書紀」では聖明王)は、新羅を攻撃したが、554年、聖王は新羅に捕らえられ斬首された。以後、百済にとって新羅は、不倶戴天の敵となる。
一方高句麗も、漢江流域を奪還すべく峨嵯山一帯に兵を向けるが、平原(ピョンウォン)王の婿で、勇猛果敢で名高い温達(オンダル)将軍が新羅の矢に当たり、峨嵯山の辺りで戦死した。
この温達将軍、韓国ではちょっと知られた存在である。
温達は身分が低く、人々から「馬鹿の温達」とあざ笑われていた。
ところがどういうわけか、平原王の一人娘と身分を越えた結婚をした。やがて、戦いでの功績が認められ、新たな政治勢力として台頭していったのであった。
温達が非業の死を遂げた場所については、峨嵯山一帯以外にも、いくつかの場所が挙げられている。
ただこの場所で、百済の故地を占領した新羅と高句麗が、激しい戦いを繰り広げたことは間違いないようだ。
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その後、百済は高句麗と接近するようになり、新羅は朝鮮半島で孤立したが、やがて唐と組み、朝鮮半島の統一を果たすことになる。すなわち、この峨嵯山一帯こそは、高句麗、百済、新羅の本格化な抗争の出発点であったとも言える。
峨嵯山が主戦場になったのは、漢江を見下ろせる位置にあるからだ。朝鮮半島のほぼ中央を流れる漢江は天然の要塞として、半島全体を支配する上で、非常に重要である。
しかも漢江は、水上交通の要衝でもある。漢江を利用されば、内陸部まで物資を運ぶことができる。さらに河から海に出れば、その向こうは中国である。
こうした重要な位置にある漢江を支配する上で、戦略的な拠点となったのが峨嵯山である。山の上から見る何気ない景色も、古代の状況に思いを馳せると、「兵どもが夢の跡」が見えてくる。
文・写真=大島 裕史
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