3人の国王……粛宗(スクチョン)、英祖(ヨンジョ)、正祖(チョンジョ)というのは、韓国時代劇が好きな人なら本当におなじみの国王なのだが、果たして歴史上ではどんな功績があったのだろうか。
具体的に業績を比べてみよう。
1674年に即位した粛宗は、それまで弱かった王権の強化に務めた国王だった。
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とにかく、強いリーダーシップで政治的な課題を次々に改善していった。特に、商業を活発にして民衆の生活の向上に尽力した。
また、国防を強化して国の守りを固めている。
こうした業績を見ると、国王として「名君」と呼ばれても不思議はない。
とはいえ、悪女と称される張禧嬪(チャン・ヒビン)をわがままで一時は王妃に昇格させている。それによって、王宮の中を混乱させたという問題も起こした。
その粛宗の二男が英祖である。
1724年に即位したが、彼は高官たちの派閥争いにとても悩まされた。そこで、実施した政策が「蕩平(タンピョン)策」である。
これはどういう政策かというと、各派閥から公平に人材を登用したものだ。とても難しいことなのだが、英祖は辛抱強くやり遂げた。それによって、派閥権力の均等化をはかることができるようになった。
英祖は本当に人事の才能に優れた王であった。
しかし、残念なことがあった。英祖は後継者だった息子の思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて餓死させてしまった。
息子の素行に問題があったとしても、権力闘争を続ける奸臣たちの間違った報告を真に受けた結果だ。
英祖は政治的には名君だったが、親子関係では問題があったと言える。
その英祖の孫が正祖だ。
正祖は服を着たまま寝ていたと言われた。常に暗殺される危機を抱えていたからだ。
そんなふうに用心しながら政治を大きく動かし、生活に役立つ実学を盛んにして、さまざまな技術の発達を実現させた。
さらに、文芸復興に熱心で、文化の発展に寄与した。
人格的にも立派で、彼こそは正真正銘の名君と言えた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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