朝鮮王朝第22代王・正祖(チョンジョ)が治世を治めた時代は、経済や農業だけでなく文化面でも発展が著しく、“朝鮮王朝ルネッサンス”とも称されている。
奇しくもその時代、朝鮮にはふたりの天才絵師が誕生した。
ひとりは金弘道(キム・ホンド)。もうひとりが申潤福(シン・ユンボク)だ。
史料によると、1745年生まれの金弘道は、1765年に絵を描くことを専門にした官庁である図画署(トファソ)で働くようになったという。
図画署とは、図面の作成や宮中内の行事画、王宮の装飾画などを描くことを担当した官庁のひとつのことだ。
高麗(コリョ)時代末期からあり、その頃は「図画院(トファウォン)」とも呼ばれていたが、1471年から図画署となった。
正祖が王になってからは役割も増え、画員が15名ほどから30名ほどに増員されたという。
その中でもっとも技術があり評価が高い者が王の肖像画などを担当したそうだが、金弘道は1771年には当時の国王だった第21代王・英祖(ヨン ジョ)の即位40周年を記念する肖像画も任されている。
1781年には正祖の肖像画も描き、その功績が認められて官職にも就いた。1788年には正祖の命を受けて全国各地の名勝地を訪ねて描いた『同文彙考(ドンムンフィゴ)』を発表し、1791年にはふたたび正祖の肖像画を増されている。
まさに王も認める天才画家だったわけだ。
そんな金弘道と比べると申潤福の記録はほとんどない状態だ。
生年月日は1758年とされているが、没年は不明。わかっているのは、父親や祖父も絵師で、申潤福も図画署で働いていたという。
金弘道よりも13歳年下だけに、おそらく金弘道な師事するか部下だったのだろう。
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だが、申潤福は好きな風俗画や春画ばかりを描いていたことで、図画署を追い出されてしまったという記述もある。金弘道と対照的だ。
ふたりは作風も対照的だった。
金弘道が主に市場で働く人々や庶民の生活を描いたのに対して、申潤福の絵の主人公は妓生(キーセン)や男女のあいびきの姿などが多い。金弘道の絵のタッチが生き生きとしているなら、申潤福の絵のタッチは繊細で女性的だ。
そのため、史実では男性だとされている申潤福だが、経歴不明で謎めいた部分が多いことから女性だったのではないかと仮定する歴史学者もいる。映画『美人図』はまさにそこに着目したわけだ。
ちなみに、パク・シニャンが金弘道を、ムン・グニョンが申潤福を演じているドラマ『風の絵師』も同じ仮説だ。それも同然。二作品はともに小説『風の絵師』をモチーフにしているのだから。
文=慎 武宏
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