振り返ってみれば、『王になった男』がこんなに面白かった理由の一つは、王と大妃の対立が生々しく描かれていたことだ。この対立は、史実を反映したものである。歴史的にも、『王になった男』の王のモデルだった光海君(クァンヘグン)と大妃だった仁穆王后(インモクワンフ)の確執は有名だった。
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その2 人の対立が歴史的に決着したのが1623年のことだった。クーデターが起こり、光海君は廃位となってしまったのだ。当時の状況を再現してみよう。
クーデターを起こした綾陽君(ヌンヤングン)は光海君の甥だが、弟を光海君に殺されて恨んでいた。同志を募って挙兵した彼は、油断していた光海君を捕らえ、一気に廃位に持ち込もうとしていた。
すぐに、綾陽君は慶運宮(キョンウングン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されていた仁穆王后の元を訪ねた。大妃の権限で即位を認めてもらおうとしたのだ。
そのとき、仁穆王后は感激して言った。
「悪魔(光海君のこと)は幼い息子を殺害して私を別宮に幽閉しました。まさか、今日のような日がくるとは、夢にも思いませんでした。悪魔は同じ空の下で一緒に住むことができない仇(かたき)です。ぜひ復讐したい」
こうして仁穆王后は、執拗に光海君の斬首を主張した。
綾陽君は驚いた。クーデターで追放したとはいえ、先の王をさらし首にすることは絶対にできなかった。
しかし、仁穆王后は光海君の斬首を絶対に譲らなかった。
実際、綾陽君が16代王・仁祖(インジョ)として即位したあとも、仁穆王后は何度も光海君の斬首を命令した。しかし、仁祖はその言葉に従わなかった。
すると、仁穆王后は自ら刺客を送って、島流しにあっていた光海君を暗殺しようとした。それほど彼女は憎しみを忘れなかった。
結局、仁穆王后は1634年に亡くなったが、最期まで光海君の殺害を願い続けたという。我が子を殺された恨みはそれほど強烈だったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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