洪景来が起こした反乱はどのような結末を迎えたのか

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『雲が描いた月明り』にホン・ラオンの父親として登場する洪景来(ホン・ギョンネ)。彼は、各地に檄文を張り出し、12月18日に反乱を起こした。その檄文は次のような内容である。

「西北地方は昔から産業が盛んで優秀な人物も多く輩出してきた。しかし、朝廷は私たちを正しく登用せず蔑視した。差別には我慢がならない。今、朝廷では国王が幼いとの理由で外戚勢力が暗躍して政治を危うくさせており、庶民の生活は悪化の一途をたどっている。今こそ立ち上がり、王権を脅かす奸臣どもを倒そう」

この檄文を読んだ反政府の人間は我先にと反乱軍に加わっていった。そこで、洪景来は自らを平西大元帥と称し、10日ほどで7つの城を占領した。

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当初、洪景来軍をあなどっていた政府軍も、本気になって反撃に転じた。やがて政府軍が優勢となり、反乱軍は奪った城の1つである定州城(チョンジュソン)に逃げ込んで籠城した。

もはや政府軍の勝利は絶対だと思われていた。しかし、政府軍が反乱軍を平定するとの名目のもとで、何の関係もない人まで殺すような蛮行を重ねたために、洪景来に反感を抱いていた人たちも気持ちが変わっていった。その結果、多くの人たちが洪景来に味方し、中には定州城に入る人までいた。

洪景来軍の戦いは、当初は社会の不条理に反抗する反乱であったが、次第に農民たちが加わり深刻な農民抗争となった。

このような状況が4カ月ほど続いたあと、定州城では食糧が不足し始めた。それでもみんなはお互いに励まし合って抗争を続けた。それほど、朝廷に対する不満が大きかったのである。

首謀者をことごとく殺害

抗戦が長期化することに苛立った政府軍は、定州城の裏にトンネルを掘る作戦に出た。彼らは洪景来軍に知られないままトンネルを掘り進め、16日後には定州城の城壁まで到達した。

1812年4月、政府軍は大量の火薬を爆発させて城壁を打ち破り、一斉攻撃を開始した。空腹と疲労の限界にあった洪景来軍は太刀打ちできず、あえなく制圧された。洪景来も戦闘中に政府軍の銃撃を受けて戦死し、他の幹部たちも虐殺された。

洪景来の乱は、挙兵して5カ月で幕を下ろした。戦闘が終わったときに定州城には約3千人が生き残っていたが、女性と10歳以下の子どもだけが解放され、残りの約2千人は処刑されてしまった。

また、洪景来と同じ時期に反乱を計画した人たちも多かったが、首謀者はことごとく殺害された。

洪景来が乱を起こした理由は、西北出身者に対する不当な差別にあり、他の地方とは何の連携も結んでいなかった。しかし、洪景来が敗れたとはいえ、彼は次第に英雄視されるようになっていった。それほど、庶民は政府の政治に反感を持っていたのだ。

反乱を起こした洪景来の罪は大きいが、庶民に苦しい生活を強いらせていた王がしっかりしていればこんなことは起きなかったのではないだろうか。そうやって見ると、どっちが悪なのかわからない。

構成=大地 康

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