【サク読み韓国史】クーデターや大国の侵攻危機もあった朝鮮王朝・中期

2020年05月14日 歴史
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列強の侵攻に苦しんだ朝鮮王朝中期は、燕山君(ヨンサングン)という暴君をクーデターで追放した11代王・中宗(チュンジョン)から始まる。

ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』で、長今(チャングム)が医者を務めた人物だ。ただ中宗は党派争いに巻き込まれ、主導権を握れなかった王と言えるだろう。

続く12代王・仁宗(インジョン)は、13代王・明宗(ミョンジョン)の母・文定王后(ムンジョンワンフ)に殺されたともいわれており、その明宗も文定王后の言いなりだった。

この時期、文定王后の弟・尹元衡(ユン・ウォニョン)を中心とした一派が権力を独占。彼らは要職を売って多額の賄賂を受けとるなど、悪事に明け暮れた。このあたりはドラマ『オクニョ』でも描かれていた。

朝鮮王朝の王が実権を取り戻したのは、14代王の宣祖(ソンジョ)の時代だろう。しかし宣祖は、朝鮮王朝は滅亡の危機にさらされる。豊臣秀吉が朝鮮に侵攻したのだ。

日本と中国の激しい侵攻度重なる危機に立ち向かった王も

韓国史では壬辰倭乱(イムジンウェラン)、日本では文禄の役とされる豊臣秀吉の朝鮮侵攻は、李舜臣(イ・スンシン)の活躍もあって日本を撤退させることになるが、戦争による被害は大きく、宣祖自らも食事と衣服を節制して贅沢を遠ざけたという。医者・許浚に『東医宝鑑』の編纂を命じたのも宣祖だった。

15代王は光海君(クァンヘグン)。実兄と腹違いの弟を粛清して王位についたことで多くの政敵を作ったが、民の負担を減らす善政を行っていることも見逃せない。暴君か名君か、評価が分かれる王だった。

朝鮮王朝・中期

その光海君をクーデターで追放して王座についた16代王・仁祖(インジョ)は、朝鮮王朝時代の王のなかで、最も屈辱を受けた王と言われている。

それは中国・清(しん)の侵攻を防ぎきれず、朝鮮王朝が属国に転落したからだ。仁祖は2人の息子を人質として清に送らなければならなかった。

仁祖の後を継いだのは、清で人質生活を送った息子の孝宗(ヒョジョン)だ。17代王となった彼は、親清派を追放し、反清派の臣下を重用。朝鮮を支配する清を討伐しようと軍事力を強化した。

しかし、中国で清がますます勢力を強めたこともあり、清討伐のチャンスをつかめず。それどころか、清の強請を受けた朝鮮軍は、2度のロシア征伐に赴いている。孝宗は清討伐の実現を果たせないまま、40歳で急逝してしまった。

日本、そして清の侵攻によって、国家存亡の危機に直面し、それでもなんとか生き残った朝鮮王朝。大国・強国に翻弄された時代だった。

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