食の都・全州(チョンジュ)が韓国史の表舞台に登場するのは、900年に新羅(シルラ)の武将・甄萱(キョンファン)が後百済(フペクチェ)を興し、当時完山州(ワンンサジュ)と言っていたこの地を、都に定めてからである。
高句麗(コグリョ)、百済、新羅の三国時代を制し、最初の統一王朝を築いた新羅であったが、都が朝鮮半島の南東に位置する慶州(キョンジュ)であったため、国土全体に目が届かないという問題があった。
新羅が弱体化していく中、そこをついて朝鮮半島の南西部では新羅の武将であった甄萱が勢力を伸ばした。
百済再興を旗印に掲げ、百済を名乗った。それ以前の百済と区別するため、通常、後百済と言う。
同じ頃、新羅の王の庶子とも言われる弓裔(クンイェ)が、朝鮮半島北部で台頭して後高句麗を建国し、「後三国時代」が始まった。
弓裔は918年に配下の王建(ワン・ゴン)に権力の座を追われ、王建は高麗を国号に定めた。王建は新羅とは融和的な姿勢をとる一方で、後百済とは激しい戦いを繰り返した。
927年、新羅の景哀王(キョンエワン)は、アワビの形に水が流れる溝を巡らした慶州の鮑石亭(ポソクチョン)で王妃らと宴を催していた時、甄萱の軍の攻撃を受けた。甄萱は景哀王に自殺を強要する一方で、甄萱の軍は強姦・強奪の限りを尽くした。
新羅の敬順王(キョンスナン)は、935年、後百済憎しで高麗に降伏し、高麗は新羅の継承者として勢力を拡大していった。
一方後百済は劣勢を余儀なくされたうえに、この年、お家騒動が勃発した。
甄萱は第4子の金剛を後継者に考えていたが、長子の神剣(シンゴム)がクーデターを起こし、金剛は殺害され、甄萱は幽閉された。
甄萱が幽閉されたのが、全州の南側に位置する母岳山(モアクサン)の麓にある金山寺(クムサンサ)である。
599年に創建されたこの寺は、弥勒信仰の中心地として知られている。金山寺で目を引くのは、何と言っても三層式の弥勒殿だ。中は吹き抜けになっていて、高さ約12メートルの弥勒菩薩立像が安置されている。
甄萱は金山寺で、痛恨の日々を送っていた。しかし幽閉されて3ヶ月後、監視人たちに酒を飲ませて逃亡し、あろうことか、高麗の王建に神剣の討伐を願い出る。
こうして後百済は翌936年、骨肉の争いの中で滅亡した。
文・写真=大島 裕史
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