【深発見32】百済の時代を思わせる「古代のタイムカプセル」

このエントリーをはてなブックマークに追加

弥勒寺(ミロクサ)のある益山(イクサン)には、ソウルの龍山(ヨンサン)駅からKTXに乗って2時間弱(2015年3月以後、1時間余りに短縮予定)で着く。

旅行ガイドなどには、弥勒寺址には石塔と旗を掲げる支柱である幢竿しか残っていないと書いてある。その石塔も補修工事中である。何となく山の中のさびしい場所を想像していた。

しかし実際は違った。益山駅からバスで40分ほど行くと、芝生が植えられた広大な敷地が現れた。そこが弥勒寺址であった。

広さは何と約21万平方メートルもある。今は建物がないものの、元来は西院、中院、東院の3構成をなし、西院と東院には九重の石塔が、中院には、九重の木塔があったという。

このような大きな寺院が、なぜ建てられたのだろうか。

弥勒寺が建てられた7世紀の東アジアは、618年の唐の誕生とともに、激動期に突入していた。朝鮮半島でも、新羅百済、高句麗の攻防が最終局面を迎えており、激しい戦いが続いていた。そのため、国の威信を高め、民衆に対する求心力が必要であった。それが、寺院であったわけだ。

それに百済の地は、元は馬韓(マハン)という、50余りの諸国連合になっていた。百済が国を興した後も、周辺部にはその残存勢力がいた。

百済の都が今のソウルから公州(コンジュ)、扶余(プヨ)と南下していくにつれ、南部の馬韓残存勢力に、力を見せつける必要があり、それが巨大伽藍であった。

伽藍址を歩いていると、東院のあった所には、九重の石塔がある。ただしこれは、1992年に復元されたものだ。中院の木塔は「木塔址」の表示があるのみだ。

そして、歴史的な大発見があったのが、西院の石塔である。

西院の石塔は、工事現場でよく見る、薄い鉄板で覆う構造物の中にある。その構造物の外壁には、今回発見された金銅製の舎利容器の写真が、誇らしげにプリントされている。

構造物の中に入ると、土台部分の石組みが目に飛び込んできた。正方形に組まれた土台の中央に、立方体の箱のような形をした心柱石が置いてある。

この構造物は、2階にも上がることができるようになっている。上から見ると、心柱石の上の中央に、立方体状の小さな穴が開いている。

この穴の中に、仏舎利容器などが入っていたのだ。現物を見ることはできなかったが、古代の人たちが、その中に宝物を納めている姿を想像するだけでも、悠久の歴史のロマンを感じる。

塔の下に仏舎利を納めることは珍しくない。しかし、寺の縁起などが書かれた黄金の延板は、どのような理由で納められたのだろうか。この延板は、石塔が解体されない限り姿を見せることがない。いったい誰に宛てたメッセージなのだろうか。

善花公主の発願で創建されたと記述している『三国遺事』は、高麗時代の1280年に編纂されたものだ。

その内容は、主に新羅系の人たちを通して伝承された歴史であり、作為であれ、不作為であれ、新羅の人たちの視点が入り込んでいる。

そのため弥勒寺の創建に関しても、新羅出身の善花公主が主役になったのではないだろうか。

一方、娘を武王に嫁がせている百済の貴族にすれば、『三国遺事』の記述は知る由もないにしても、新羅出身の善花公主を好ましく思っていなかったはずだ。

しかも百済の国は、存亡の危機を迎えようとしていた。そのため、いつそのタイムカプセルが開けられるか分からないにしても、後世の人たちに、自分たちの存在を知らせたかったのではないか。

そんなことを考えながら弥勒寺址を出て、また益山駅に戻った。

文・写真=大島 裕史

【関連】王は27人なのに子は235人!! 朝鮮王朝の王たちは何人の子を授かったのか

【関連】韓ドラ時代劇に欠かせぬ朝鮮王朝の王の中で本妻と側室が多かったのは誰か

【関連】朝鮮王朝の秘められた情事…真剣勝負だった王と女性たちの“夜の営み”

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事