江華島にある標高468メートルの摩尼山(マニサン)。山を降りて西に行くと、高句麗時代からの伝統がある名刹・伝燈寺(チョンドゥンサ)があり、さらに西の外れに行くと、対岸の金浦市が見える。
江華島の西側と金浦市の間には、幅300メートルほどの水路が6、7キロ続く。この水路は塩の河という意味の鹽河(ヨムハ)と言い、海でもあり川でもある。
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外国からの侵略に備えて鹽河に添って、大小様々な防塁や砲台がある。南にある草芝鎮(チョジジン)は、江華島事件のきっかけになった雲揚号に向けての発砲があった所であり、隣接する徳津鎮(トクチンジン)、広城堡(クァンソンボ)も、フランスやアメリカ艦隊と激闘を繰り広げた防塁であった。
さらに北上し、激動の歴史を展示している江華歴史館の隣にある甲串燉台(カッコットンデ)は、元は蒙古の侵略に備えて設置されたが、清の侵略を受けた後の1679年、さらに補強された防塁だ。
フランス艦隊との間でも激しい戦闘が繰り広げられたこの防塁の城塞は、1977年に復元されたものである。
こうした防塁は、戦闘が繰り返された島の過酷な歴史を物語るのもではあるが、あくまでも史跡であり、現在の戦争ではあまり意味をなさない。
しかし甲串燉台の南側には、鹽河に沿って、水路側に反り返るように有刺鉄線の鉄条網が張り巡らされている。
江華島のすぐ北側には、海の38度線とも言うべき北方限界線(NLL)が通り、北朝鮮との間で時々武力衝突が起きている。
現代の戦争において脅威なのが、工作員の侵入である。私が初めてこの島を訪れた際は、島を出る時、橋の上でバスが止まり、軍人が乗り込んできて怪しい人物はいないか、チェックしていた。2回目の時は、そんなことはなかったが、緊張が続いていることに変わりはない。もし北朝鮮との間で戦争が起きた場合、江華島は真っ先に戦場になる。島の人はこうした状況に、恐怖を感じないのだろうか。
タクシーの運転手に聞くと、「俺は心配しない。もし(北朝鮮が)変なことをしたら、アメリカや日本が黙っていますか。だから、そんなことは起きないさ」と言って笑った。
島の人たちの関心は、日々の暮らしと、島の発展である。1972年に施行された法律により、江華島は軍事施設保護地域として開発が制限されていたが、現在はやや緩和されている。週休2日制の定着により、この島は首都圏のリゾート地として注目されている。
この島の「激動」が、過去の歴史に止まることを願わずにはいられない。
文・写真=大島 裕史
大島 裕史 プロフィール
1961年東京都生まれ。明治大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て、1993年~1994年、ソウルの延世大学韓国語学堂に留学。同校全課程修了後、日本に帰国し、文筆業に。『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、のちに集英社文庫)で1996年度ミズノスポーツライター賞受賞。その他の著書に、『2002年韓国への旅』(NHK出版)、『誰かについしゃべりたくなる日韓なるほど雑学の本』(幻冬舎文庫)、『コリアンスポーツ「克日」戦争』(新潮社)など。
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