韓流プレミアで放送中の韓国時代劇『トンイ』に登場する張禧嬪(チャン・ヒビン)は、19代王の粛宗(スクチョン)の息子を産む。
しかし、最終的に張禧嬪は罪人として死罪になってしまうのだが、罪人の子となってしまった世子は王になることができたのだろうか。
結論から先に紹介すると、朝鮮王朝・第20代王の景宗(キョンジョン)として即位している。詳しく見ていこう。
正室の座を手に入れた張禧嬪(チャン・ヒビン)は、その後、ますますわがままが目立つようになり、時には粛宗(スクチョン)にさえ意見をした。粛宗はそんな張禧嬪にいら立ちをつのらせていった。
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「離縁したのは間違いだったのか……」
粛宗は仁顕(イニョン)王后を廃妃(ペビ)にしたことを後悔するようになった。
張禧嬪に恨みのある仁顕王后の一派は粛宗の心情を察すると、他の側室を巧みに利用して、張禧嬪の悪口を広めた。
それが度重なると、ようやく粛宗も張禧嬪に対し不信感をつのらせ、最後は彼女を再び側室に格下げした。そして、仁顕王后を正室に復帰させた。この決定に張禧嬪は絶望的になった。
自暴自棄になった彼女は、宮中に祭壇を作り仁顕王后の死を願う祈祷を繰り返した。
1701年、仁顕王后が亡くなった。張禧嬪はそのことを喜んだ。
しかし、彼女が正室に戻ることはなかった。呪いの祭壇を作っていたことが粛宗にバレてしまったのだ。
この時の粛宗の怒りは凄まじかった。
「神聖なる宮中に呪いの言葉を持ちこむとは、正気の沙汰ではない」
張禧嬪は死薬によって自決させられた。
また、彼女と深く関係した者たちも官職を没収された。
このとき、粛宗と張禧嬪の子供である長男は13歳だった。
しかし、すでに粛宗は側室の淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)との間にも二男を授かっていた。
長男が病弱で子供を作れない体質だったこともあり、宮中では二男を後継者にすべきだという声が多くあがった。
こうなると、長男を擁護する派閥と、二男を支持する派閥に完全に分かれた。この両派は熾烈な党争を延々と続けた。
1720年、粛宗が59歳で息を引き取った。
粛宗は国内情勢を安定させるなど、数々の偉業を達成していることで評価されている。しかし、張禧嬪の一件を見るだけでも、愛憎の起伏が激しい人物だった。
粛宗が亡くなり、長男が20代王の景宗(キョンジョン)となった。
景宗が即位しても、対立する2つの派閥は常に相手の失脚を画策していた。
二男を支持する4大臣は、景宗が王になって1年もたたないうちに、二男を正式に後継者とするべきだと主張した。景宗派は、その不当性を訴えるが受け入れられず、かえって二男が景宗にかわって政務を取り仕切るべきだ、という意見まで出てしまった。
こうした結果になったのも、張禧嬪が死罪になっていて、景宗が罪人の息子という立場だったことが大きい。
党争が続くと、景宗の一派は二男を殺す機会を探し始める。身の危険を感じた二男は、「自分は次の王にならない」と明らかにした。これは身を守るための建前だが、結果として彼の命を守った。
二男には王になる意思がないと確信した景宗派は、今度は二男を支持する一派を厳しく処罰した。
1724年、王子時代からの持病を悪化させた景宗は、36年の短い人生を終えた。党派争いに翻弄されてきた彼は、王として何も残すことができなかった。
跡取りがいない景宗が亡くなり、結局、弟が21代王の英祖(ヨンジョ)として即位した。
朝鮮王朝の歴史の中で、罪人となった王妃の息子が王として即位できる例はそれほどないと思うが、518年の歴史の中でこの景宗のようなケースはどれくらいあったのだろうか。
構成=大地 康
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