【サク読み韓国史】新羅と渤海が並存した南北国時代の繁栄と消滅

2020年05月08日 歴史
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高句麗(コグリョ)や百済(ペクチェ)を滅亡させて、676年に三国時代を制した新羅(シルラ)。一般的に、以降の新羅を“統一新羅”と呼ぶ。

統一新羅は中央集権制を強化し、仏教文化を国の礎として浸透させた。また、農業や手工業の発展にともない、貿易業も発展。新羅の商人によって、様々な文化財が日本に運ばれることもあったと伝えられている。

順調に強国として発展していった統一新羅だったが、8世紀に入ると、王位継承を巡って国が乱れていく。特に第36代王・恵恭王(ヘゴンワン)は、貴族間の争いで殺害されてしまう。

すると、王位継承争いに敗れた王族・貴族たち、そして地方の豪族が台頭し、各地で反乱が頻発。その1つが841年に張保皐(チャン・ボゴ)が起こした反乱だ。ドラマ『海神』では英雄として描かれる張保皐だが、史実のでは反逆者としてその名が記録されている。

こうして統一新羅の国力が低下していくなかで、892年には甄萱 (キョンフォン)が後百済(フペクチェ)を、901年には弓裔(クンイェ)が後高句麗(フコグリョ)を建国する。

統一新羅は内部崩壊し、渤海は中国に滅ぼされる?

朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅が覇権を争った三国時代と同じく、再び3国に分裂したのだ。この時代を「後三国時代」と呼ぶ。そして935年、王建(ワン・ゴン)が建国した高麗(コリョ)によって、統一新羅は滅ぼされた。

一方、時を遡って、新羅が三国統一を果たしてから20年あまり過ぎた698年。朝鮮半島の北の地では、渤海(パレ)が建国された。始祖は大祚榮(テ・ジョヨン)だ。

大祚榮は渤海を建国後、対立が続いていた中国・唐との関係を修復し、隣国の契丹(きったん)、日本とも外交関係を構築したと伝えられている。実際に、日本の漢詩集『文華秀麗集』には、訪日した渤海使節の詩文が残されているという。

始祖の功績を引き継いで渤海は勢力を強めていき、諸説あるものの、9世紀に入ると朝鮮半島北部から中国東北部、さらにロシアの沿岸地方にまで領土を広げたとされる。“海東の盛国”の異名がついたのもこの時代だ。

南北国時代

ただ、渤海については、韓国と中国で認識が大きく異なる。というのも、大祚榮が生前、唐から「渤海郡王」の称号を受けているからだ。

いずれにせよ、渤海は統一新羅滅亡の10年ほど前の926年に、契丹によって滅ぼされたという。詳しい経緯はわかっておらず、火山の噴火で滅亡したなどという説もある。

統一新羅と渤海が強国として君臨した南北国時代は、こうして幕を閉じた。朝鮮半島は、高麗の“一強時代”へと移り変わっていく。

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