前編では、トンイが張禧嬪(チャン・ヒビン)よりも悪女じゃないかと思える根拠について、2つまで紹介した。この後編では3つ目の根拠を語っていく。いったいどんな根拠があるのだろうか。
そして、前編の2つの根拠と合わせて実際に悪女と呼ばれるのにふさわしいのはどちらなのか。前編と後編の2つの記事を読んだうえで判断してほしい。
3つ目の根拠。
張禧嬪の息子は粛宗が亡くなった後、20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。しかし、わずか4年で世を去ってしまった。
それによって、景宗の弟だった英祖(ヨンジョ)が21代王として即位した。英祖はまぎれもなくトンイの息子である。
しかし、父親である粛宗とまったく似ていなかったと言われている。景宗のほうは粛宗によく似ていたのだが、英祖はなぜかまったく似ていなかった。
英祖が即位した後に反乱が起きたが、その反乱軍が大義名分にしたのは、英祖が粛宗の子供ではないということだ。
当時はその噂は国中に広まっていた。事実であれば、トンイは粛宗以外の男性と男女関係を結んでいたことになる。その相手としては、トンイの黒幕だった金春沢(キム・チュンテク)の名も取り沙汰されている。
張禧嬪は作られた悪女である。実際、「朝鮮王朝実録」を読む限りにおいて、張禧嬪が悪行をした形跡はない。しかし、女官から王妃になったことで怨まれて様々な悪口を言われたのは事実である。
一方のトンイは、張禧嬪とは逆に悪女と呼ばれたことが一度もない。しかし、「朝鮮王朝実録」を読み、当時の状況を推察すると、張禧嬪よりトンイのほうが悪女だったと明確に思える。
こういった根拠をもとに改めて考えてみると、トンイと張禧嬪の2人のうち悪女として呼ばれるのにふさわしいのはどちらなのだろうかと思ってしまう。
しかし、実際に「朝鮮王朝三大悪女」の1人として数えられているのだから、やっぱり、張禧嬪のほうがより悪女として相応しいのではないだろうか。
文=大地 康
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