【サク読み韓国史】500年続いた歴史の幕引きとなった朝鮮王朝・後期

2020年05月15日 ヒストリア
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朝鮮王朝後期は、国内で党派争いが激化して、最後は西洋列強と日本の圧力を受けて国家が滅亡する時代だ。

第18代王・顕宗(ヒョンジョン)の治世時代は、朝廷内で西人派(ソインパ)と南人派(ナミンパ)が激しく党派争いを繰り広げた。彼らは王族の葬儀の形式について対立するなど、無用な論争を繰り広げていたが、朝廷が二分することで国家の発展は抑制されてしまった。

党派争いを見事に利用したのは、『トンイ』でお馴染みの第19代王・粛宗(スクチョン)だ。彼は側室・張禧嬪(チャン・ヒビン)に翻弄されたようにも評価されているが、特定の党派に長く権力を握らせないために冷酷な判断も下した。

粛宗の見事な政治力によって、王権は強化されている。

以降の第20代王・景宗(キョンジョン)は、粛宗と張禧嬪の息子で、第21代王・英祖(ヨンジョ)は、粛宗とトンイこと淑嬪崔氏(スクピン・チェシ)の息子だ。

英祖は悲劇の王として知られている。即位当初の英祖は、当時の2大派閥である老論派(ノロンパ)と少論派(ソロンパ)から平等に人材を登用する「蕩平策(タンピョンチェク)」を実施した。

粛宗のように王権強化を図ったが、党派争いを完全に抑えることはできなかった。それは、英祖の息子・思悼世子(サドセジャ)の存在が大きい。

名君から悲劇の王まで朝鮮王朝の悲惨な結末

思悼世子は老論派の重鎮の娘と結婚していながら、小論派の人間を好んだ。

彼が英祖の後を継げば、政権を握れないと思った老論派は、英祖の継妃である貞熹王后(チョンヒワンフ)と結託し、荘献世子の悪評を英祖に伝え続ける。

英祖は次第に、荘献世子に疑いを持つように。そしてついに英祖は、荘献世子の身分を庶民に降格させて、米びつに閉じ込めて餓死させてしまうのだった。

それでも英祖の孫である正祖(チョンジョ)が第22代王に即位すると、朝鮮王朝の農業や経済が発展。さらに文化面での発展も著しく、彼の治世時代は、“朝鮮王朝ルネッサンス”と称されている。

朝鮮王朝・後期

朝鮮王朝は全盛期を迎えたわけだが、その繁栄も第23代王・純祖(スンジョ)の時代になると一変した。純祖の義父を中心とした安東金氏(アンドンキムシ)が勢力を握り、政治は混乱。

民が不安に陥ると、第24代王・憲宗(ホンジョン)の治世には、天主教(カトリック)が流行した。哲宗(チョルジョン)の治世には、東学(トンハク)という宗教も急速に広がっていった。

哲宗の死後、王位についたのが高宗(コジョン)だ。この時代は、1885年に明成皇后(ミョンソンファンフ)の暗殺事件が起こるなど、日本をはじめとした西洋列強の侵攻を受けた。

高宗は国名を「大韓帝国」に変え、自ら“皇帝”を名乗った。しかし日本の圧力によって、純宗(スンジョン)が皇位につくと、1910年に日韓併合条約が結ばれ、朝鮮王朝は滅亡するのであった。

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