【深発見2】韓国の中華街はなぜ歴史が浅いのか

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仁川(インチョン)駅前の通りを渡り、坂道を上っていくと、そこは中華街になっている。街の入り口には、「中華街」と書かれた、上に瓦をふいた堂々とした構えの赤い門がそびえ立っている。この門は建てられて、まだ10年余りしか経っていない。

私が仁川の中華街を初めて訪れたのは、今から20年余り前のことだ。当時は、中華街と言っても、中華料理店が数軒並んでいるだけであった。

中華料理店の中には、中国の時代劇に出てくるような、趣のある、伝統的な中国家屋もあった。しかし当時はまだ、中華街と呼ぶには、あまりにみすぼらしかった。

朝鮮半島と中国は陸続きで、古代から深い関係にある。それだけに両者の感情は複雑である。

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そのため、在韓華僑に対しては、就職や結婚などで様々な差別があり、日本の植民地支配から解放された後、彼らの資産は厳しく制限された。そうした差別もあり、軍事政権時代、多くの在韓華僑は韓国を離れ、アメリカや台湾に移ったという。そのため韓国には、隣国でありながら、中華街らしい中華街は存在しなかった。

そうした流れが変わり出したのは、1992年の韓中の国交正常化と、外資に対する規制が大幅に緩和された1998年の金融経済危機であった。

しかも仁川港からは、天津、上海などにフェリーが就航している。中華街を整備して、中国からの観光客を呼び込みたいという思いもあって、ここ10数年の間に、仁川駅前の中華街も、様子がかなり変わってきた。

仁川の中華街の様子(写真=大島 裕史)

横浜、神戸、長崎などの中華街と比べると見劣りするのは確かだが、坂道を上ると中国風の赤い建物が並び、中国物産品店なども増えて、だいぶ中華街らしくなった。

ただしそれは、新たな中華街が誕生したというよりも、昔の活気をわずかながら取り戻したといった方が正確かもしれない。

文・写真/大島 裕史


大島 裕史 プロフィール
1961年東京都生まれ。明治大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て、1993年~1994年、ソウルの延世大学韓国語学堂に留学。同校全課程修了後、日本に帰国し、文筆業に。『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、のちに集英社文庫)で1996年度ミズノスポーツライター賞受賞。その他の著書に、『2002年韓国への旅』(NHK出版)、『誰かについしゃべりたくなる日韓なるほど雑学の本』(幻冬舎文庫)、『コリアンスポーツ「克日」戦争』(新潮社)など。

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