傑作時代劇『赤い袖先』では、イ・ジュノが演じたイ・サンとイ・セヨンが扮した宮女ソン・ドギムの抒情的な愛が情感豊かに描かれていた。ストーリーも史実を巧みに取り入れて重厚な歴史劇となっていて、2人の人生がドラマの中で劇的に投影されていた。
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歴史的に言うと、イ・サンとソン・ドギムが初めて会ったのは1762年のことだ。そして、イ・サンがソン・ドギムに求愛して承恩(王族男子が宮女と一夜を共にすること)を命じたのは1766年だった。この時イ・サンは14歳でソン・ドギムは13歳。
彼女は喜んでイ・サンの承恩を受けると思われたが、実際はまるで違った。なんとソン・ドギムは承恩を断ったのである。なぜ彼女はそんな無謀なことをしたのか。それはいつも心から慕っていたイ・サンの妻に申し訳ないと思っていたからだ。そこまで配慮できるのだから、ソン・ドギムは本当に情が深い人であったことだろう。
それでもイ・サンの愛は変わらなかった。彼は1776年に22代王として即位したのだが、ずっとソン・ドギムを寵愛していた。1780年、28歳になっていたイ・サンは再びソン・ドギムに承恩を命じた。最初に承恩を命じてから14年がたっていた。
その時もソン・ドギムは承恩を断っている。理由は前回と同じだった。孝懿(ヒョイ)王后にはまだ子供がいなかった。それゆえ、孝懿王后の気持ちを考えてソン・ドギムはイ・サンの承恩を断ったのだ。
しかし前回の拒絶とは意味が違った。なぜなら、国王になっていたイ・サンにまだ後継ぎがいなかったからだ。これは王家の中でとても大事な問題であり、イ・サンとしても早く後継ぎを決めたいという気持ちが強かった。
孝懿王后は子供を産んでいないので、側室に頼らざるを得ない。それだけに切実な気持ちでイ・サンはソン・ドギムに救愛したのだ。そうした事情をソン・ドギムもよくわきまえていた。
結局、ソン・ドギムはイ・サンの子供を妊娠することになった。しかし、二度も流産してしまった。その後ソン・ドギムは1782年9月7日に王子を産んだ。その功績によって彼女は1783年に正一品の宜嬪(ウィビン)ソン氏となった。さらにソン・ドギムは1784年に王女を産んだ。ただし、2ヶ月たらずで亡くなってしまった。
その後、長男が世子として正式に決まった。それが文孝(ムニョ)世子だ。その時はまだ2歳になっていなかった。世子として決めるには本当に異例なのだが、イ・サンも30歳を超えていたので、世子を早く決めたいという気持ちが強かった。このように期待された世子であったが、1786年5月に亡くなってしまった。
この悲劇はソン・ドギムを絶望させた。衰弱したソン・ドギムは世子が亡くなって4ヶ月後にこの世を去っている。その悲しみの場面は『赤い袖先』でも詳細に描かれていた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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